2013-01-01から1年間の記事一覧
この文章は、具体的に考えるとひとつには戦後吉本が評論家として登場したときに「文学者の戦争責任論」を提起したわけですが、吉本は自分が戦争中に戦争を肯定する愛国青年であったことをいっさい隠し立てしなかったことを指すと思います。しかし吉本が戦争…
わたしが若いころ吉本を読み始めて、こんな考え方にははじめて出会ったという驚きを感じたのは、知識を増やしていくということが人間にとって「自然過程」にすぎない、というところでした。自然過程という言葉は吉本がよく使う言葉ですが、ほっておいても自…
宮沢賢治の祖国のない非日本的な普遍性というものは、ひとつには科学者としての科学の普遍性からきているのだと思います。宮沢賢治は科学者であると同時に熱烈な日蓮宗の信者でした。宗教というものはその発生から国家以前に遡るものです。宗教というのは古…
「グスコーブドリの伝記」の特徴として吉本があげているのは自然観以外にもうひとつあります。それは「超人になりたい」という宗教的な願望です。超人、あるいはにんげん以上の存在になりたいというのは、法華経でいえば菩薩になりたいということになります…
この文章は前回の文章が書かれた吉本が米沢高等工業高校に進学する前の、東京府立化学工業学校に通っていた当時の「和楽路」(たぶんワラジと読むんでしょう)という文芸誌のなかの文章で、ガリ版刷りの冊子だったそうです。当時吉本は16歳くらいで、これ…
こうした幼い文章のなかにも、その生涯の終わりまでを見届けた者には吉本の初期とその後の人生を貫くものがあるように読めてしまう。吉本がマルクスについて書いたように、そのアルファとオメガが円環をなすように感じられてしまうわけです。吉本が書いてい…
この文章は吉本が米沢高等工業学校に通っていた時に友人と作った「からす」という同期回覧誌の巻頭言のようです。1943年に書かれたということなので19歳くらいだとおもいます。高等工業学校というのは今でいう工業大学なんだとおもいます。米沢高等工…
他人の文章を理解するということが他人を理解し洞察することだという素朴な文章観もまた吉本の戒律であり思想であるものです。ほかの人間を深く理解しようとして幾多の作品の批評を行ってきたのが吉本の人生だといってもいいと思います。吉本の社会思想や歴…
この「教師」という人は今氏乙冶といって東京の深川で私塾を開いていたそうです。吉本は小学校の4年生から7年間という思春期と青春期をこの私塾に通ってすごし、大きな影響をこの私塾の雰囲気と今氏さんからうけたと述べています。今氏さんはその後東京大…
この優れた教師というのは今氏乙冶さんですが、今氏塾では生徒の月謝に金額が決められていなかったそうです。塾の棚のうえに箱があり、そこにそれぞれの生徒が親から預かった謝礼を入れるけれど、その額は貧しい家庭は安く豊かな家庭は高めに入れる感じで、…
これは自らのちからで現実自体から論理を築くことができないというアジア的な特質を突いたことばですし、だから私じしんにも突き刺さってくることばですね。もちろんあなた自身にもね。勉強するのは結構だけど、勉強なるものの結果が偉大な知的な人物の思想…
戦争体験の思想的展開はわたしども二三のものによって生命を保たれて現在にいたっている。この自負の凄さと、たった二三のものしかいないのかという厳しさを昔読んだ時に感じました。でも実際そんな感じだとその後数十年がたった私はおもっています。その時…
これは初期ノートのなかで心に残る箇所でした。これは喩なんですね。このイメージのなかに当時の吉本の心情や倫理や時代や宿命の感覚が凝縮されています。拾い上げてみると、まず「考えること」をしている、というイメージですね。「うつむいていく」という…
この哀しいという感覚は宿命にたいする感覚なんだとおもいます。自分で将来像を自由に決めているわけではない。各自の宿命というものが将来像に投影されているんだということです。おまけです 有名な小林秀雄の文章 「様々なる意匠」より 人は様々な可能性を…
この文章は具体的にいえば、たとえば戦争中に軍国少年として戦争を徹底的にやるべきだと信じていた過去の吉本自身というものを捨てたり隠したりしないということです。戦争に敗けて戦争中のイデオロギーは悪い軍部が国民を支配するために振り撒いたものだと…
この文章は若いころ読んだのですが、まだよく覚えています。これは吉本の社会思想の核心を余すところなく述べているとおもいます。とくに「無形の組織者であり、無形の多数派であり、確乎たる「現実」そのものである」という断言の迫力は無類の凝縮力をもっ…
この文章は吉本が自らの思想を築く実践的な支柱のようなもので、この柱の上に様々な思想的な仕事が広がっています。まず自らの体験があり、それを論理によってほじくり返す。徹底した論理性を体験に与えることによって、自らの体験を普遍化し抽象化していく…
ここで「立場」主義者と呼んでいるのは、いわば教条主義のことで具体的には左翼政党(共産党とか社会党)を指しているのだと思います。マルクスやレーニンの言説を教典として信仰に近い無批判な忠誠を示すならそれは教条主義です。それに対して自らの体験を…
こうした文章や、もう一つの「ゼミ・イメージ切り替え法」のほうの文章は学生の頃初めて吉本の本に出会った私に世界というものの考え方の基本を教えてくれたものです。とてもよく考え抜かれた世界についての考え方の基本。それは他の誰からも教えてもらえな…
体験から思想は生まれる。しかし体験を思想として練り上げることをしないから、ただ体験につきまとう情念をもちうるだけだ。そして情念は年月のなかで風化してしまう。逆にいえば、どんなに卑小な閉ざされたアンタが思っているように取るに足らないような経…
吉本は30歳くらいの頃に、東洋インキという会社の青戸工場で労働組合運動を行い組合長になってリーダーとして会社と戦っていました。この文章はそういう体験をもとに書かれていると思います。私には組合運動の体験がないので、わかったようなことは言えま…
こういう言葉は胸の底に届き、社会に対する目を開いてくれたものです。そして徹底的に闘って必ず敗れていく人物や集団を見抜く目を育ててくれたと思います。そして自分自身も敗れっぱなしではありますが、それが「敗北」という必然に値するものでありたいと…
これは初期ノートのなかの「宮沢賢治童話論」の最後の文章で、宮沢賢治が亡くなった時までを辿った後の感想として述べられています。引用されている宮沢賢治の詩は「種山ヶ原の夜」という劇の劇中歌からの抜粋で宮沢賢治が作詞作曲した楽曲でもあります。宮…
こうして宮沢賢治は死んでいった。宮沢賢治は若くして 死んでいった妹以外には対幻想としての女性というものを、つまり恋人や妻というものがいなかった人だと思います。では自分自身の内面に籠った生き方をしたかというとそうではない。宮沢賢治は生涯自分の…
宮沢賢治は生涯経済的にちゃんと自立できなかった人で、親の仕送りに頼って暮らすことから抜けられなかった人らしいです。だからそういう面から見ればダメな人だともいえます。一人前の社会人になりきれなかった弱さをもった人といえるでしょう。宮沢賢治に…
吉本は自分の性格をなにかのアンケートに答えて「受動的戦闘性」と書いていました。これはこの文章の「この消極性の中に、何とも言われぬ積極性が現れる」ということと共通しているように私は思います。受動性というのは受け身ということで、受け身であると…
吉本にとって宮沢賢治は大きな存在で、正面からぶつかった宮沢賢治論は膨大なテーマを追求しています。その全体はとてもここで書ききれないわけですが、このノートの部分に触れるようなところを少し解説してみます。「悲劇の解読」(1979筑摩書房)のな…
その悲しみはひとつには魂の奥底からゆさぶるようなものだということであり、もうひとつはそれが「わけがわからないところにわけのわからいことろ自体としてある」ということなんだと思います。つまり二重になった悲しみです。そこで吉本は少なくともわけが…
吉本は宮沢賢治が大好きなんだと思います。吉本が傾倒した同時代の文学者というと高村光太郎や太宰治や横光利一などがいるわけですが、その中でも宮沢賢治への傾倒の仕方は格別だという感じがします。それはたぶん資質というところで最も似ているというか、…
現在の社会で倫理として通用しているヒューマニズムのような倫理の形がどうしても白々しく感じられるという段階が到来していると感じられます。しかしそれに代わる新しい倫理というものが視えてこない。その新しい倫理のあり方というのは、吉本がずっと考え…