若し社会なるものが今日、日本の文学者における如く、自らに食を与へる一つの機能であるにすぎないならば、僕は斯かる社会なるものを必要としないだらう。併しながら、社会なるものは僕の精神にとつて明瞭に一つの場処を占めてゐる。(原理の照明)

この文章はこの下の「ゼミ・イメージ切り替え法」の文章と続いています。それを合わせ読むとわかりますが、吉本は歴史的現実、つまり歴史があってその積み重なりの上に存在している現在のこの社会、そのありようを内面の問題にしようとしていると思います。それは単に現在の社会問題を考察しようというのとは違うわけです。もっと内面の問題そのものに関わらせて歴史的現実を取り込もうということです。あるいは、歴史的現実に影響を受けて喜怒哀楽を生じている自分の内面の領域に気がついたということになります。

こういう考え方は、かってこうした文章を読んだ若いころの私には衝撃でした。社会というものや歴史というものは、自分のこころ、ひそかな内面、喜びや悲しみや美や不安を感じる他人には窺い知れない文学や芸術の棲む場所、といったこころの世界にどう関わるかわからなかったからです。社会というのは遠いところにあって新聞に載っているようなできごとが起きている。しかしそれは自分のひそやかな内面には関わらない出来事だ。そうとしか感じられなかったわけです。

吉本に私とは違った考え方ができたのは、戦争期と敗戦期という歴史的動乱の時期に青春を送ったからでしょう。私たちの世代はその後の戦後の「平和」の時代に生まれて、社会を内面に繰り込むということができにくくなっていると思います。しかし吉本がここで書いていることの意味は重要だと思います。吉本は歴史や社会に関心を持て、知識を持てと言いたいわけではないと思います。つまり知識人になることを奨励しているわけではない。ただ自分自身の内面という知識人であれ庶民であれひそやかに抱いている自分自身の「こころ」に、いっけん関係なさそうな歴史や現実社会が大きく影響しているという指摘です。だから身近な人々との関係や、身近な出来事によって自分のこころが揺れ動いているというホームドラマ私小説的な歌のような自分のこころの世界の把握には、こころ自体を描き切れない空白があるということです。それは歴史的現実を感性と論理の問題として、単なる知識の問題ではなく取り込めていないから生じる空白です。

最近の漫画やドラマを見ていると、日常的な世界と突如として登場する膨大な異世界との共存のような設定が多い気がします。つまり「ガンツ」のような漫画です。それは鋭敏な若い作り手が、そうした空白に気がついたために工夫された設定なんだと思います。なにか大きなものが自分のひそやかな心の世界に影響を与えている。それも尋常ではない大きな不安や疑問を。しかし日常は大きな変化なく続いていく。そうしたことに気づいている若い人間に大きな物語としての宗教やイデオロギーを与えれば、それを信仰していくかもしれない。しかし吉本は敗戦という経験を経て、自分でその空白を埋める思想を作り出さなければ意味がないということを自覚していました。

そんなところで吉本の分裂病の解説に移らせていただきます。

麻原彰晃の「生死を超える」の記述を吉本は最大限に評価しています。この本には一般の人間にはとてつもないと感じられることが記載されていますが、吉本はそれを適当な作り話だとかインチキだとかとみなしていません。ヨーガの修行の内的体験としてありうるものだと思っているわけです。

「生死を超える」は臨死体験の体験談とよく似ています。死ぬ間際の体験、そして死んだ後と自分では考えている「死後の体験」という臨死体験者の体験談と共通しているものがあるわけです。そして臨死体験が重要なのは、死ぬ間際と死後の世界とみなされている世界の体験が世界共通性として持っている特徴があり、それはもしかするとあらゆる人間が死に際して体験する普遍的な共通性かもしれないということです。世界中に臨死体験者という人たちはいます。その体験の内容はその地域の歴史や文化によって異なりますが、共通するものもあります。するとここでいくつかの大きな疑問が生じます。ひとつめは誰でも死に際して「臨死体験」と呼ばれているイメージの世界を経験するのではないだろうか、という疑問です。それは信仰のあるなしとも、宗教の宗派とも関わらない、その世界観の影響はあるとしても臨死体験を体験すること自体はどんな人間でも、あなたでも私でも体験することになる普遍性かもしれないという大きな疑問です。

もしこのことが普遍性だったとして、それが常識として浸透していないのは「臨死体験」を経験した人が通常はそのまま死んでしまうからでしょう。まれに臨死状態から生還できた人が語る「臨死体験談」があって、それが収集されはじめた時期があって、それで臨死体験の研究が始まったのでしょうが、それまでは臨死体験というイメージ体験が普遍的なものかもしれないという疑問は生じなかったのかもしれません。

さらに疑問は深まります。「臨死体験」という概念は近代のものとしても、臨死体験をした人は原始・未開の時代からいたでしょう。その人たちは自分の瀕死の体験を「死後の世界に行ってきた」と確信して身近な人々の話しただろうと想像できます。こうした死後の世界の言い伝えが「輪廻」というものを信じる根拠ではないでしょうか。

死後の世界の体験ともうひとつ双璧となるのが「前世の記憶」です。前世はこんなところに住んでいて、こういう人間だったと、そんなことを知るはずのない者が突然しゃべりだす。そしてその前世の記憶のとおりの人物や出来事が存在したとわかる。するとその前世の記憶は前世というものは存在するのだという信仰に変わります。前世があって死後があるならば、つまり生まれ変わりがあるわけで、輪廻は存在するという信仰になります。この輪廻の信仰が原始的な宗教に共通するものだと吉本は述べています。そしてブッダはこの輪廻という原始信仰を破って、輪廻からの解脱を解いたということになります。

麻原彰晃の「生死を超える」が吉本のいうように優秀なヨーガ修行者の体験談だとすると、ヨーガの修行、一般に浄土宗以前の仏教の「修行」といわれているものは、いわば自分でコントロールしながら自分の臨死体験に近いものを作り出すことだ、ということになります。自分でコントロールしながら意識を臨死の状態にもっていく修行によって、死後の世界とその先の世界まで体験するという記述を載せています。死後の世界の先とは「転生の世界」です。死んで死後の世界に行って、そこから人間や動物などに転生する。すなわち輪廻です。つまり古代の宗教の普遍的な信仰であった「輪廻」を意識体験として一貫して描くことができている。きっとそれが吉本に「生死を超えるは面白い」と感銘させた理由ではないかと思います。

「生死を超える」に記載されたヨーガの内的体験がどんなにとんでもないものに思えたとしても、吉本によればそうした体験は「未開や原始の時代にはオセアニアや西南アジアや北アジアの種族にとって普通の実体験の世界で、現在のこの地域では痕跡しか残っていない心的な体験の世界をヨーガの修練で産出するのが、著者(麻原彰晃)たちの信仰の中心ではないのかとおもえる」ということになります。つまり大昔には普通に体験されていた「もうひとつの世界」や「死後の世界」というものを蘇らせているだけで、自分の勝手に空想を記述しているわけではないということです。

もうひとつ吉本の記述で重要なのは「わたしの関心にひき寄せれば、この著者が生み出し、記述している肉体や感覚体験は、分裂病者が無意識の強迫から作り出している体感や感覚異常の体験の世界を積極的に自在に作ることができていることを意味するのではないか」というくだりです。そうだとすると、分裂病の妄想というものは、古代や原始の時代には普通の実体験としてあった内的体験とつながりがあり、その復活のような面があるということになります。分裂病者の妄想はその個人の勝手な空想の世界の思い込みではないということになりましょう。

すると古代、原始未開の世界の内面の問題、臨死体験者や前世記憶を持つ人の問題、ヨーガ修行者や仏教各派の修行者の問題、そして分裂病の妄想の問題がある共通の領域に結びつけられることになります。さらに吉本はもうひとつの問題をここにつなげようとしています。

「生死を超える」のなかに麻原が「夢見のヨーガ」と呼んでいるアナハタ・チャクラ(みぞおちのところの霊的なセンター)への精神集中の修練について書かれています。この段階では「この世」とちがうべつの世界を創り出し、そこで遊ぶことができるようになる。その創られた世界では、触れることも、見ることも、聞くことも、匂うことも、味わうことも、また考えることもできると書かれています。そして麻原はこういう実体験とおなじ如実な感覚体験がこの創られた世界でできることが逆に「この世」も無常なイメージにすぎないのではないかと感じさせる根拠になるという興味深いヨーガ体験観を述べていると吉本は書いています。

吉本は麻原のこの記述を読みながらふたつのことを連想したと書いています。

「ひとつは「古事記」の初期神話やアイヌ神話にある「あの世」は「この世」と対称的でそっくりおなじ世界になっていて、死者はおなじ暮らしをしているというイメージだ。もうひとつは現在作られているいちばん高次な映像体験であるバーチャル・イメージの世界だ。そこでは映像の世界にじぶんが入り込んで、触れることも、見ることも、聞くことも体験できる感じになる。わたしはこの未開、原始の世界と超現在の世界の両方に通底したイメージ体験は、著者が記載しているアナハタ・チャクラの体験と関係があると思った」(「生死を超えるは面白い」吉本隆明

つまりつくば万博の富士通館で披露されたようなバーチャル体験というものの先進的な映像体験もまた、原始未開の内的体験や臨死体験やヨーガ体験や分裂病者の妄想とともに共通の領域に関わっていると吉本はみなしているわけです。こうした吉本の追求は、私たちが「この世」とみなしている世界を拡張する意味を持っていると思います。原始未開の体験も臨死体験もヨーガの修行体験も分裂病者の妄想も、わたしたちの一般の体験から離れた異端の体験です。だから私たちはそうした体験を特殊な体験と考え、あるいはうさんくさい作り物の体験とみなし、または異常な病的な体験に過ぎないとみなします。しかしそうではないのではないか。これらの体験が結びつく領域があり、それは私たち普通の人間が潜在的にもっている普遍性であるのではないでしょうか。

私たちが「この世」とみなしている世界、それは経済社会的にいえば高度資本主義社会ということになります。その高度資本主義、あるいは消費資本主義社会がある臨界点のようなものを遠方に感じさせるところまできています。となるとその先の社会はいわば「あの世」ですが、その社会のイメージはなんだということになります。現在の「この世」のあちこちで終末観がただよい、このままではもたいなのではないかという危機感が生じているとすると、その先にあるものはもっとも初源にあったのに切り捨ててきたものを取り込むという方法で切り開こうという発想になります。

しかしこの世が拡張されて新しい世界が垣間見えてきた時に、問題となるのは新しい倫理でしょう。倫理は共同性の規範だから、どのような倫理が新しく樹立されるのかが新しい世界の根幹となるわけです。オウムのサリン事件は最大の衝撃的な倫理的な課題を突き付けたといえます。しかしそれは現在の社会の、つまり「この世」の拡張をそれなりに達成したヨーガの内的体験の延長として生じたもので、バカがバカを集めてしでかしたキチガイ事件だという程度の認識では済まないはずです。