2015-01-01から1年間の記事一覧

僕は僕の現実についての判断と、信ずべき正当な方向とが、次第に潜行せざるを得なくなつてゐるのを感じる。しかもこの距離感は増々巨きくなりつつあるようだ。(断想Ⅰ)

現実に対する判断と、信ずるべき正当な方向、つまり理想とする社会の将来のあり方が「潜行せざるをえない」というのは、たぶん吉本の考えが孤立して、主張しても賛同を得られないようになっていくということだと思います。「ぼくが真実を口にするとほとんど…

僕は実験する。だが恐らく僕は実証するひまを持たない。実証とは言はばひとつ

実験と実証というのはどう違うんでしょうか。またそれで吉本は何を言いたいのか。化学の実験が吉本の当時の職業だったとはいえ、化学のことを書いているわけではないでしょう。これは思想のことを言っているんだと思います。実験というのは実験室で行われる…

良く企画された歌を唱ふことが批評である。それ故批評は計量詩である。(原理の照明)

「良く企画された」という意味を社会に対して歴史に対して、また自分の意識や無意識に対してよく把握されているということだとすると、戦後の荒地派の詩というのは良く企画された詩といえるのだと思います。だから計量詩ともいえるし、批評を内包した詩だと…

今日資本家の所得と労働者の所得とを比較すること。賃銀の余剰価値部分率を、資本家の所得との対比において論ずるのは余り意味がない。固定資本量の生態と労働者所得の生態の関係こそ、ヒユーマニズムの経済学的考察の対象であらねばならぬ。(原理の照明)

正直言ってこれは良く分かりません。前段の言っていることはなんとなくわかりますが、「固定資本量の生態と労働所得の生態」というのがさっぱりわからない。固定資本というのは流動資本じゃないもの、つまり工場とか建物とかのことだと思います。しかしその…

批評における判断力の強弱は、単元的な判断の連鎖の持続度の強弱としてあらはれる。(〈批評の原則についての註〉)

吉本がどこで書いていたのか思い出せませんが、マルクスについて、普通の人なら数分とか数十分とかしか持続することに耐えられない思考を、何時間も何日も持続して考えに考えることができる、それがマルクスだというようなことを書いていたと思います。プロ…

〈出来るだけ易しい言葉を用ひること。〉(断想Ⅲ)

「できるだけやさしい言葉を用いること」というのは、吉本がひそかに苦闘した大きな課題だったと思います。そこ奥には、吉本が人と、特に女性とコミュニケーションが取りにくいという生涯の体験があったと思います。そんな吉本家に吉本以外は女性と猫しかい…

それで人間は虚無のうちにのみ存在すると言ふことが出来る。(下町)

「それで」というのはどういうことかというと、私の考えでは信じるということができないということだと思います。吉本は敗戦によって信じるものがなくなったということじゃないでしょうか。あるいは信じるということ自体に疑問が湧いたということです。現実…

〈おまへは自分を信ずるのだよ。あんまり痛ましい程自分がなさすぎる。〉(下町)

この「おまへ」は吉本のことでしょう。では誰が吉本に「自分がなさすぎる」と言っているのかといえば、それはこれは創作だと思いますから自分が自分に言っているといってもいいわけですが、私が想像するにはたぶん吉本の物語詩に出てくるイザベル・オト先生…

僕は次の精神の段階において僕を待つものが疾風怒濤であることを予感する。僕はそれを自らの精神によって、同時に肉体によつて行ふだらう。(断想Ⅳ)

この初期ノートを書いている時期の吉本は、いわば「ひきこもり」の時期だったといえましょう。敗戦の衝撃を受け止め、新しく思想の構えを立て直すためにうつうつとして考えつづけている、外から見たらひきこもっていた時期ではないかと思います。吉本に言わ…

精神は余りに抵抗しすぎて疲れてゐる。(断想Ⅲ)

そうなんでしょうね。ご苦労様です。おまけ。 ありません。

常に方法的な基礎のうへに建築された体系は、巨大な圧力を呈するもので、絶えずおびやかされてゐる架空な設計家は、直ちに模倣家と変ずるかさもなければ、自らの場所を逃れ出すであらう。だが方法的な基礎のうへに建築された体系は、若しそれが心理的な充填物を充填しない限り、激動に対して鞏固ではないものだ。即ち多少の可鍛性がないものは脆いと言はなくてはならない。(方法的制覇)

「常に方法的な基礎の基礎のうえに建築された体系」というのは、たとえばマルクスの思想体系のようなことをいうのでしょう。その思想体系は全歴史、全世界をおおって、その方法的原理は人間と自然の根源的な関係をめぐって作り上げられています。だから圧倒…

方法性は決して浸透作用を持つものではない。それは膜平衡の原理には適用されず、多くの結節をもつた脊髄の如きものであらう。(方法的制覇)

化学の人だなあという感じの用語ですが、方法とか原理というものの性質を述べているのだと思います。しかし吉本が亡くなって感じることですが、吉本が方法的に原理的に考察してくれているおかげで、吉本の考察がもっているわけです。その時の情況にみあった…

常に方法的な基礎のうへに建築された体系は、巨大な圧力を呈するもので、絶えずおびやかされてゐる架空な設計家は、直ちに模倣家と変ずるかさもなければ、自らの場所を逃れ出すであらう。だが方法的な基礎のうへに建築された体系は、若しそれが心理的な充填物を充填しない限り、激動に対して鞏固ではないものだ。即ち多少の可鍛性がないものは脆いと言はなくてはならない。(方法的制覇)

「常に方法的な基礎の基礎のうえに建築された体系」というのは、たとえばマルクスの思想体系のようなことをいうのでしょう。その思想体系は全歴史、全世界をおおって、その方法的原理は人間と自然の根源的な関係をめぐって作り上げられています。だから圧倒…

方法性は決して浸透作用を持つものではない。それは膜平衡の原理には適用されず、多くの結節をもつた脊髄の如きものであらう。(方法的制覇)

化学の人だなあという感じの用語ですが、方法とか原理というものの性質を述べているのだと思います。しかし吉本が亡くなって感じることですが、吉本が方法的に原理的に考察してくれているおかげで、吉本の考察がもっているわけです。その時の情況にみあった…

現実は膜を隔てて僕の精神に反映する。この膜は曲者だ。言はばそれは僕の精神と現実との間にある断層の象徴としてあるわけだが……。この断層は僕の生理に由因するかどうか。(断想Ⅵ)

ここで「膜」といっている概念はあいまいです。「現実」というのも「精神」というのもあいまいだと思います。「生理」というのもあいまい。それはその後の吉本の思想から逆に照らしてあいまいだと感じるわけです。ここには共同幻想、自己幻想、対幻想という…

人が何かをする事さへ確かなら、少し位待つたつて何でもない。〈オーギユスト・ロダン〉(断想Ⅵ)

吉本の「心的現象論」の「序説」が「試行」誌上で始まったのが1965年、「本論」が「試行」の終刊とともに終わったのが1997年。なんと32年間の歳月を費やして「心的現象論」は書かれ続けてきたわけです。「少しくらい待ったって」という言葉の重さというもの…

文字にうつされた思想……そこにはもう生理はなくなつてゐる。(風の章)

生理がないというのは、なまなましい情動が文字にしてしまうと失われるというようなことだと思います。それでも同時代の読者が読む場合は、同じ時代の空気や事件や風俗を共有していますから文字の背後のなまなましい内面も推測がしやすい面があります。これ…

あまたの海鳥が海の上で演じてゐる嬉戯――それは幼年の日から僕の意識の中に固定した像を結んだ。港 船舶 三角浮標 それからクレエンの響き いまも残つてゐるのはその響きである。(風の章)

これは吉本が幼少期をすごした佃島のあたりの光景でしょう。吉本は自分の出生とか生い立ちとか人生の経路とかを隠したり美化したりすることのない人です。失敗は失敗として挫折は挫折として貧しさは貧しさとしてそのまま表現できる人です。なんとか自分じゃ…

批評家にとつて対象となりうるものは、批評家の宿命と同じ構造をもつた、しかも異つた素材からなる対象のみである。これ以外に対する場合、批評家は自分の宿命を稀薄にするか、または対象をその環境(ミリュ)と同じ程度に稀薄にするか、何れかを撰ばねばならない。(〈批評の原則についての註〉)

たとえば漱石は吉本にとって自分の宿命と同じ構造をもった作家だとみなしたと思います。しかし鴎外は吉本の宿命とは違う構造をもっていたとみなしたと思います。宿命というのは、自分の無意識の構造のことでしょう。意識して行うこととは別の次元で自分の人…

批評家にとつて〈環境〉のなかにおける〈対象〉といふ主題は、常に魅力的である。併しこの場合、〈対象〉は無意識家または無意識的な作品であることを必要とするであらう。そうでないならば〈環境〉のなかにおける〈対象〉といふ主題は、必然的に批評家自身の宿命像の抽出に転化されてしまふ。(〈批評の原則についての註〉)

「環境」というのは時代とか社会とかその作家の生育史とかそういうものだと思います。そういう環境についての自意識がなく、あるいは自己分析がないのが無意識家、無意識的な作品というものです。もしたいへん自意識的な作家が自らの環境も十分に意識して作…

聴きたまへ。貧しい僕の仲間たち。だが並外れた期待は禁じられてゐる。地上に存在するすべてのものは僕たちのために存在するのではなくて、僕たちがすべての存在のために存在してゐるだけだから……。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

こういう「聴きたまえ」みたいな口調はヨーロッパの文学の翻訳文の模倣でしょう。若き吉本にもヨーロッパの文化へのあこがれや陶酔があったのだと思います。それは吉本のナルシチズムでもあるんだと思います。しかしそういうナルシチズムは現実意識と反省意…

すべての美や真実や正義を、神へ、それから権威へ、それから卑しい帝王へ与へてきた人類。空しくそれを習慣や儀式のなかに、保存してきたひと達。神権と王権との結合。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

ここで翻訳口調でちょっと陶酔しながら吉本が言っているのは、日本の天皇制のことです。天皇制であろうが王政であろうが教祖様であろうが、それがおかしいというのはわかっている。しかしそれがなぜ強固な信者によって守られているのか、なぜそれが成立し、…

若し僕たちが幼い時のままの感受性に加へるに論理的な綜合力と分析力とを保続しようとするならば、日課として幾つかの思考の体操の基本型をくりかへせばよいことになる。人間はしばしば自らの理解力や知力が齢とともに増進すると信じてゐるようだが、それは明らかに錯覚であると考へられる。(〈思考の体操の基本的な型について〉)

ここで吉本が思考の体操としているものは3つあって、①思考の浸透と拡散を同時に行使する演習②抽象されたものを更に抽象化する演習③感情を論理化する演習 論理を感情に再現する演習、です。このなかで思考の浸透と拡散というのがわかりにくいと思いますが、…

精神のすべての操作はそれが保存せられるために、演習せられねばならないのであって、演習せられなければ減退するのである。(〈思考の体操の基本的な型について〉)

アタマは使わなければ衰える。使っているアタマだって年とともに衰えるけれど、なんとか寿命まではもたせたい。だいたい今のような老人の認知症が問題になってきたのは、寿命が急激に延びたからだとおもいます。戦後すぐには50歳台でしかなかった平均寿命が7…

歴史は人間が持つてゐると同じ数の欲望と動機を持つものだ。(秩序の構造)

吉本はいろいろなところで何回も言っているんですが、つまりそれは吉本自身がなんどもそこから考えを組み立ててきたということでしょうが、歴史というのは仮に世界に100万人の人間がいたとすると、100万通りの生きてきたあり方がある、その総和が歴史だとい…

歴史はしばしば上部構造の歴史として描かれてきた。法制史は多くの部分を歴史の分野で占めてゐるが、それは原因の分野を占めるものではなく、結果の分野を占めるものだ。(秩序の構造)

ここではヘーゲルよりマルクスの歴史観が土台になっているわけでしょう。歴史は世界のすべての人々の行動の総和だ、という土台ではあるが土台すぎてどうにもならないところから出発して、マルクスは観念の歴史としての上部構造と、経済の歴史としての下部構…

行為は無償である。あらゆる名目にもかかはらず無償である。行為はそれ自体では決して集積作用を持たないから。集積されるのは行為の作用だけである。作用にはあらゆる人間性が疎外される。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは正直いってよくわかりません。たぶんこれはマルクスの「疎外」という概念を理解しようとしているんじゃないかという気がします。こちらがわに人間があり、その外側に自然がある。人間が自然に対して働きかけること一般が、ここでいう「行為」の意味な…

行為の自己写像のみが集積されて人間的となる。だが、それはやはり無償である。(形而上学ニツイテノNOTE)

もう難しいことばっかいうよね吉本は。いやんなっちゃう。これは前半の続きのノートですから、わたしにはマルクスの「疎外」概念を追跡して、人間の人間的な精神というものがどこから発生するかを追いつめようとしているんだと思います。全自然に対する対象…

直覚的なものを現実化するのは行為である。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは初期ノートのこの部分だけ取り出してもわかりません。全部とりだしてもわかんないんだからなおさらです。そこでこの断章のちょっと前を書いてみます。 「すべての現象を基本的な原理に還元すること。 原理的なものはすべて抽象的である。 思考は抽象的…

それ故行為は予定を含まない。予定はあらゆる形而上的な規定には含まれない。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは前の解説に含ませて書いたことになりました、要するにお手上げに近い状態です。ただこれを読んだ時に、三島由紀夫が行動ということをしきりに言っていて、行動というのはその政治的な有効性を期待してやるものではないんだ。それは不純な行動なんで、…