くものいと くものいとに 息を吹きかけながら 明日の日の 小さな声を にはとこの ざやめきに 真実きいた 軒端のくものいと くもは居ないよ 息ふきかけて 夕焼 小焼(くものいと)
この詩は吉本が東京府立化学工業学校に在学中に友人と作っていた「和楽路」という同人誌に発表されたそうです。この詩の載った「和楽路」最終号は、1941年11月に発刊されたそうで、吉本は1924年11月生まれだから16歳の時に書いた詩か、あるいはそれ以前に書かれた詩なんでしょう。この化学工業学校の時代に吉本は今氏乙治という人の私塾に通って勉強していました。この無名の私塾の先生が吉本に大きな影響を与えています。吉本はこの時代に「書くこと」を覚え、幼い詩を書き始めたと書いていますから、この詩は吉本が詩を書き始めた手習いのような意味をもっていると思います。いっぽうでここには吉本の感性の故郷というものがあらわれているのではないでしょうか。
ただ、習作とはいえ完成度は高いと私は思います。この詩の感性は、自然に対する感性で、農村を舞台にした日本の自然詩人たちの影響を受けていると思います。こういう詩を書く吉本、また短歌が好きな吉本は日本的な自然感性の持ち主としての吉本です。それから童謡のようなものに対する好みがあると思います。童謡とか童話とかファンタジーに対する好みです。それは言い換えれば幼児性に対する関心です。それは吉本が最大の関心を向けた詩人の宮沢賢治につながっていきます。
そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。
サリン事件を起こしたオウムの麻原彰晃に対する吉本の考察を解説しています。吉本はオウムサリン事件に社会の転換期を象徴する重要な思想的特徴を読み取りました。
それまでの善悪の倫理基準が崩壊しかけて、新しい倫理を作る段階に社会が踏み込んだという理解をもったわけです。オウムが起こした無差別殺傷事件というものを宗教的な本質から導き出された宗教思想として捉え、それを超えようとしなければオウムサリン事件の提起した問題を超えることはできない。できないということは、形を変えて同様の事件は起き続けるし対応もできないということです。吉本の公開されたオウムサリン事件に対する見解の背景には、吉本が追求し続けてきた社会に対する考察があり、宗教についての考察があり、人間の心的なものへの考察があってその思想的な生涯の重量をすべて賭けて語られているのですが、ほとんどのマスコミや投書してくる読者にとって、吉本は殺人鬼の麻原を擁護しているイカレた評論家というものでした。それは福島の原発事故の時の吉本の公開された発言の引き起こした反応と同じです。バカがいっぱいいる嫌な社会だなあと思いますが、それは置いといて吉本の考察を追ってみます。
人はみな死んでいきます。では死ぬときにどのような内的体験をするのでしょうか。
死んでいくのは肉体ですが、死にゆく肉体のなかで意識はどうなっているのでしょうか。現在まで膨大な数の人が死んできたわけですが、みんな死ぬときには死にゆく内面を体験しながら死んでいったわけでしょう。そこには普遍性があるはずです。宗教の違い、国家の違い、思想の違い、貧富の違い、文化の違いを超えて死の共通性がある以上、死にゆく体験の共通性、普遍性もあるはずだと思います。しかしそれを体験する人はみんな死んで、あっちに行っちゃうわけだから生きている世界、つまり「この世」に伝わらない、ということになります。死にゆく内面というものは重要でしょうか。たぶんたいへん重要なんですよ。なぜ重要かというと、「あの世」はあるのか、つまり転生とか輪廻とか、あるいは天国とか地獄とか涅槃とか浄土とか煉獄といった世界はあるのかという宗教的な問題に決着をつけるからです。「死ねば死に切り」なのか、そうではないのか。さらに宗教的ではなく思想的にも、あるいは科学的にも興味のつきないものがあります。内面性、精神性が死に向かっていくということは何なのか。そこには精神が解体していく過程があるわけで、それは精神が形成されていく過程を逆に映し出すと思われます。吉本はそれを死とは誕生の過程を逆に辿ることだと言っています。
死にゆく体験は誰もが最後にはするのに、その体験をもってあっち側の世界に行ってしまう、つまり死んでしまうので伝える者がいない。しかし例外があります。それは臨死体験をして生還してきた人たちです。もう一つの例外は宗教的な修行者だということになります。しかも宗教的な修行者は死にゆく体験に近いものを自分でコントロールしながら行えるところが臨死体験者とは違います。吉本は麻原彰晃のなかにヨーガ修行者として死にゆく体験と同様のところに心身をもっていくことができ、それを明快に記述することのできる稀有の修行者をみていることになります。これがキチガイの殺人鬼という世間の評価と激突したところです。
しかし麻原の「生死を超える」の記述を読むと、麻原は死にゆく体験のさらに向こう側の体験を記述しています。それは死後の世界であり、転生の世界です。つまり輪廻していく原始仏教の世界観に沿った経験を記述しています。この問題について、吉本は「宗教の最終のすがた」(1996年春秋社)という本で、興味深いことを述べています。
この本でインタビュアーの芹沢俊介が、ヨーガの瞑想の過程は自己と自己との関係で「自己対」というべきものだと思うんですが、という言葉を受けて吉本は、その「自己対」を究めていくと死に接触するという観点と、死後の世界に入っていく観点がでてくると述べています。吉本は、そうすると精神医学ということが問題になると言っているんです。こうした死の問題は生誕の問題を逆に辿るという吉本の考察がありますから、それに沿って死や死後の世界を精神医学はどうとらえるかという問題がありえます。フロイト的にいえば、生まれたときから一歳未満までが無意識領域が主体になると考えられる。つまり言語獲得以前です。それが精神医学が死や死後のの問題と関わる範囲ということになります。
吉本はこの精神医学の範囲、つまりフロイトの無意識概念に対して、もう少し拡張して胎内の時期にまでさかのぼって考えたいと述べています。つまり胎児期から一歳未満までが人間の無意識の核だと考えたいということです。そこまで精神医学の範囲を拡張できるならば、母体の問題も含めて精神医学は統御できるかもしれないと言っています。つまり精神医学的に死や死後の世界の考察が可能だということになります。
しかし麻原などがいう宗教的な対幻想、「自己対幻想」における無意識というのは胎児になる以前まで行ってしまうと吉本は述べています。胎児以前というと、受精する以前ということになります。つまり前世までさかのぼることになります。吉本はそこまでの無意識となると「無意識が歴史意識と地続きになる」と言っています。そうなれば輪廻転生が自由になる。宗教で輪廻転生が自由であるというのは、要するに無意識が受精以前までさかのぼれるということを言っているんだと吉本は述べています。そんなところへ精神医学は行けない。吉本もわからないし、精神医学者もわからないというしかない、自己対幻想におけるいちばん難しい問題だと吉本は述べています。受精以前まで無意識がさかのぼれるか、さかのぼれないかが仏教の修行者と科学者、思想家の分岐点だということです。
吉本は精神医学者がオウムについて発言して麻原を批判しても、麻原は自信を持っていると言っています。その自信はどこからくるかというと、精神医学者はせいぜいフロイトのいう「無意識領域」、つまり出生以降の一歳未満の無意識を根拠にして「マインドコントロール」というような概念を使って非難しているわけですが、麻原の方は、おれは無意識を胎児以前にまでさかのぼれる、つまり前世までさかのぼれる、死後までさかのぼれるというところまでおれはやったぜという、そういう自信があるだろうと述べています。
無意識が受精以前まで遡れるのかどうか、ということは吉本がわからないように私たちにもわからないわけですが、仏教やその修行の意味の核心は吉本によってみごとに把握されていると思います。
つまり仏教、日本の浄土宗によって解体されるまでの仏教というのは、麻原がやった修行と同じようなことをやり、同じように死後の世界や転生の意味をしろうとしたということになります。その仏教やヨーガの修行の意味を思想的に言い換えると、無意識領域にどう自己コントロールしながら入っていくかということになりましょう。そしてその無意識領域への潜入がどこまで行けるかが修行の境地というものであり、あるいは悟りというものだと考えられます。精神医学との対比でいえば、フロイトの無意識概念を拡張する課題となりますが、それを受精以前にまで遡ったという仏教やヨーガ修行者の主張に対しては理解不能というしかない。
しかしもっと別の観点もありえます。つまりそうした修行の境地がどうであれ、だからなんなんだという観点です。日本浄土宗とくに親鸞は修行なんてしてもしかたがないという観点を徹底的に掘り下げていった宗教者だと吉本は考えています。では修行を放棄した宗教者は何を問題にするのかといえば、倫理を問題にするわけです。善悪の問題をどう普遍化するか、言い換えれば社会のなかで流通している善悪の基準から離脱した水準に善悪の基準を作ることができるかという問題に取り組みます。なぜならもし社会に流通している善悪を超ええないならば宗教者の意味は全くなくなるからです。いらないわけですよ世間の善悪に追従しているだけの宗教者なんて。しかしそういう宗教者ばっかりだということをオウムサリン事件はあぶりだしたといえます。
法然、親鸞の日本浄土教が仏教修行の意味を否定し、そういう意味で仏教を解体し、仏教の問題を善悪の基準の問題に置きなおしたと吉本は考えています。すると特に親鸞には、善悪のきわどい問題が突き付けられていきました。「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」という逆説で善悪の問題を説いた親鸞に対して、それなら意図して悪を行えば、より往生しやすくなるだろうと考えて悪を意図的になそうとする者があらわれます。これを「造悪論」と呼ぶと、オウムサリン事件もこの造悪論の現代版といえる面があると吉本は考えています。意図して悪をなす、ということの背景には麻原彰晃のヨーガ修行の達成があり、その達成が生み出すこの世とあの世の逆転、あるいはこの世もあの世もまぼろしとみるような「境地」というものがあるといえます。そのことに触れ、そのことを理解し、そのうえでその宗教的な思想を包括し批判する。それを吉本はしようとして幾度も親鸞に戻って考えています。