2009-11-01から1ヶ月間の記事一覧

「僕の労力は何ら交換価値を具へてゐない。やがて人生の機構は僕に教へることになるだらう。それでは死ぬより外ないことを。だが、僕はあのドストエフスキーの述べた原理だけは棄てはしないだらう。人は、或る目的のために人生を費やしてはならないといふ原理だけは……。そこで結局は、僕はある交換価値を目的として労力を費やしてはならないといふ原理に到達する。斯くて僕は生活するためにのみ仕事をし、それ以外のことのためには交換価値なき労力を捧げねばならない。」(風の章)

20年位前に吉本はさかんに先進国の社会の分析を発表していました。先進国とは何かというと、社会というものは特に欧米や日本では農業や漁業などの第1次産業が中心の近代以前の社会があり、そこから工業が中心の近代社会に移ります。そして工業(第2次産業)…

「上昇する倫理(道徳律)は必然的に現実化に限界を与へることである。下降する倫理は必然的に、作用の限界を無限にまで追ひやることを意味する。人間は、自らの作用化に限界するとき、必然的に他を限界し返へすものである。人間が自らと他とを交換し得るのは死においてである。何故ならば、死においてはじめて人間は等質化するからである。死において自由の問題は無限大に発散し消滅する。作用化された死においてそれ故自由があるのである。倫理を無償化することによって、我々は限界を無限に追ひやる。それは、自己を限界しないことによって他を限

なんとも判りにくい文章で困りますね。しかし借り物でなく自分の力で考えていくとこんなふうにギクシャクとした手作りの論理になるものです。この文章は「形而上学ニツイテノNOTE」という章全体で吉本が自己規定している概念を追っていかないと、ここだ…

「希望なくしては人は死の中にある。しかもあの貧しい人たちは死のやうにつらい仕事のなかに、生活のなかに、僅かに死を回避してゐるのだ。死の心にかへる死の労働。」(風の章)

これは仕事とか労働というものを貧しい人たちは死のようにつらいことをしていると捉えているわけです。死のようにつらいから心を無感覚にして耐えている。じゃあ無感覚になれば吉本が25歳くらいだった頃の敗戦後の社会に希望の感覚があるかというと、ありゃ…

「僕は一つの基底を持つ。基底にかへらう。そこではあらゆる学説、芸術の本質、諸分野が同じ光線によって貫かれてゐる。そこでは一切は価値の決定のためではなく、原理の照明のために存在してゐる。」(原理の照明)

なにが原理なのか、一番普遍的な真実はなにか、ということが吉本の若い頃からの関心であったと思います。私が吉本が提出した原理的な思考のなかで、いま一番気になりよく考えるのは、吉本のもとの文章が見つからないので引用はできませんが、要するに知とい…