誤謬は再生産され、歴史的にうけつがれ、またおなじ行路をゆき、青年はやがて老いる。しかし、思想の生命は、このような循環のなかには存在しない、戦争体験の思想的展開は、わたしども、二三のものによつて生命を保たれて現在にいたつている。(過去についての自註)

戦争体験の思想的展開はわたしども二三のものによって生命を保たれて現在にいたっている。この自負の凄さと、たった二三のものしかいないのかという厳しさを昔読んだ時に感じました。でも実際そんな感じだとその後数十年がたった私はおもっています。その時代にある分野で信頼に足りる思想の持続をしてくれている人物はほんの二三人くらいといってもいいんじゃないかと実感します。その二三人にはなかなかなれないわけですが、その二三人を見抜いて学ぶことはしたいものだとおもいます。

おまけです
共同幻想論」のなかの「対幻想論」より         吉本隆明<対なる幻想>を<共同なる幻想>に同致できるような人物を、血縁から疎外したとき<家族>は発生した。そしてこの疎外された人物は、宗教的な権力を集団全体にふるう存在でもありえたし、集団のある局面だけでふるう存在でもありえた。それだから、<家族>の本質はただ、それが<対なる幻想>だということだけである。そこで父権が優位か母権が優位かはどちらでもいいことなのだ。また<対なる幻想>はそれ自体の構造をもっており、いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、集団の共同的な体制と独立しているといってよい。
フロイトは集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の関係を、集団とそれぞれの個人の関係とみなした。けれど男・女のあいだの心は、個人の心ではなく対になった心である。そして集団の心と対なる心が、いいかえれば共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった本質に分離したとき、はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題がおおきく登場するようになったのである。もちろんそれは近代以後の<家族>の問題である。