2010-05-01から1ヶ月間の記事一覧

風は吹くのではない。空気が動いてゐるのだ。だから僕は言はう。今日空は荒れてゐると。(〈少年と少女へのノート〉)

風が吹いてくるというのは私たちが馴染んでいる感受性の言葉です。それに対して空気が動いているという感受性は馴染みがない。それは科学的な知識として一般的に理解できるものですが、知識にとどまって日常的な感受性となっているものではないわけです。そ…

〈死はいつも内側から忍び込んで来るのですからね。だから僕らはふり返へらなければいいのだ。いつも厳しいところにゐればよいのだ。〉(〈少年と少女へのノート〉)

うつ状態に閉じ込められた人と話していて気がつくのは、すべてが過去だということです。もう取り返しがつかないという悔しさと恐ろしさと怒りが心のすべてを占めています。人のせいにして攻撃しては、攻撃する自分の弱さに傷ついてまたうつを深めます。どこ…

時よ。僕はいまおまへの移行を惜む。且ては速やかであれと願つたこともあつたのに。現在は遣りとげなければならないことがいつぱいだ。あまりに浪費してきた罰で歩みは遅く、おまへが沈んでゆく日となつて、雑林や農家の竝(なら・並)んだむかふへ馳せてゆくとき、僕は追ひかける勇気をなくしてじつとしてゐる。(〈少年と少女へのノート〉)

この文章は1950年に書かれたようです。吉本は1924年生まれだから26歳くらいの時の文章です。もうひとつ1966年に書かれた文章を引用します。60年の安保闘争を体験した後の吉本の文章です。過ぎていく時に対する感受性が同じようでありながら…

下街で銀行がビヤホールに変つてゐた。人たちは片手落ちな交換をやるために昔のやうにそこを出入してゐた。(下町)

片手落ちな交換というのは、要するに銀行家や資本家をもうけさせるような不利な交換を庶民がしているということでしょう。それは戦後左翼思想に目覚めた吉本の抱いた思想的な反感なんだと思います。これもひとつのNOの感受性で、戦後多くの人々が左翼思想…