2013-01-01から1年間の記事一覧

数々の夢から分裂する悔恨を僕はとうの昔、忘れはてたと信じてゐる。精神は抒情の秩序を失なつてしまつたから。僕が夕ぐれ語り得ることは嬰児の如き単調なレポートだけなのだ(〈夕ぐれと夜との言葉〉)

この初期ノートは1950年頃に書かれているようなので、つまり敗戦直後の混乱期にいる吉本が書いているわけです。吉本は「精神は抒情の秩序を失ってしまった」と書いています。戦争に敗北し、天皇が人間宣言をし、軍人たちが戦犯として処刑され、進駐軍が…

すると自由といふものはあの長い長い忍耐のうちにしかない。この忍耐はしばしば生きることに疑惑を感じさせる原因となる。(〈少年と少女へのノート〉)

自由というものは長い長い忍耐のうちにしかない、ということを吉本は後年、自由ではなく「自立」という概念にしたといえると思います。長い長い忍耐をして、気がつけば白髪のおじいさんということになります。それじゃ生きることに疑惑を感じるのも無理はな…

(前略)姉が心臓の疲弊で苦しんでゐた頃、僕は二、三日前読んだマルセル・プルーストの一節を心の中で繰返したりしてゐた、何といふ不様なことだらう、僕には幸福とも不幸とも思へぬ平凡な家庭を、姉は死ぬ程恋しがつてゐた、何といふ相違だらう、やがて姉の死と同時に、あれ程深い印象を刻んでゐたプルースト「失なひし時を索めて」のカデンツアが僕の心から遠退いていつた。姉の死が代つて僕を領したからだ、人は語り得る部分よりも沈黙のうちに守つてゐる部分を遥かに多く蔵つてゐる、殊に他人より一層そのやうであつた姉のために、僕がこれだけ

吉本のお姉さんは敗戦後の食い物のない時代に肺結核で亡くなるんですね。お姉さんは短歌を作るのが好きだったわけです。初期ノートのあとがきにありますが、お姉さんが参加していた短歌誌の主催者の人に、当時の吉本の勘繰りでは、お姉さんは秘かに好意を寄…

再び誘惑のこえを聴かう。(夕ぐれと夜との独白)

これだけでは何の誘惑だかわからないわけですが、前後の文脈から判断するとおそらく死の誘惑なんだと思います。死にたいという誘惑がある人は確かにいます。私にはそういう誘惑がないからわからないんですが、その誘惑に誘われて実際に死んでしまう人もいま…

無益な思考はすべて有用な思考の糧となつてゐることを僕に教へたのは、怠惰の習性である。(原理の照明)

吉本に怠惰といわれても、あんなに努力した人はいないんじゃないかと思っているからピンとこないですが、主観的には怠惰なんでしょうね。いろんなところで自分のことを怠惰だと言ってますから。怠惰ということと隣り合わせなのはデカダンスでしょう。デカダ…

精神は絶えず振幅してゐる。或るときは振動子は確かに死の側にあつた。僕が何故死ななかつたかと言へば、振動子の周期が、僕の自棄よりもやや速やかだつたからだ。(原理の照明)

いっぽうで化学の実験や仕事をやりながらこういうノートを書いているんでしょうね。思考を化学実験のように描くからね。要するに死んじまおうとまで思い詰める寸前に、それを忘れて生きるほうへ振り子が振れることが繰り返されたということをいっています。…

思考は眼を持たない。眼を原材とすることはあつても。従つて画家の仕事、即ち絵画は決して思想の表象ではない。それは眼だ。眼が思考するとき、抽象が表現される。(原理の照明)

言語的世界というものがあって、言語的世界が生まれ出るもやもやとした心の世界があるとすると、その心の世界が形成されるのにはふたつの経路があって、ひとつは身体の外壁系の感覚諸器官から入ってくるもので、もうひとつは内臓系の諸器官から入ってくるも…

やがて痛手は何かを創造することだらう。自然と同じように人間は抑圧をエネルギーに化することが出来るものなのだから。〈三月*日〉(夕ぐれと夜との独白)

この考え方も初期ノートのなかに何度か登場するものです。吉本の文体には化学の学徒としての教養と体験が入り込んでいますから、これもエネルギー不変の法則みたいな記述になっていると思います。吉本にはなにが痛手だったのかと考えると、さまざまなことが…

芸術の精神をあらゆる他の精神から区別する唯ひとつの要素は、それが人間をして彼自身の価値を放棄せしめるといふことである。(断想Ⅳ)

なんだか難しい言い方をしていますが、私なりの平ったい言い方で解釈すると芸術というのは植えつけられた価値観を疑う、ということをどうしても伴うということじゃないかと思います。世間に流通している価値の秩序というものがあります。知識のあるほうが無…

現代においてわれわれから寂寥を奪つてゐるものは事象の高い速度である。それ故われわれは既に受動的な寂寥を失つたと言つてよい。われわれの寂寥は世界に対する能動的な寂寥である。われわれの精神は今や包むもの(世界)としてしか存在し得ない。(〈寂寥についての註〉)

1980年代に入ってから吉本は「マス・イメージ論」を書き、高度資本主義とか超資本主義というべき現在の社会の解明に力を注ぐようになりました。その一連の考察のなかでこの文章にも出てくる「速度」の問題を取り上げています。社会的な速度、時間の流れ…

あゝ貧しい人達! 君達は長い間、すべての美や真実や正義やを、神へ、それから権威へ、それから卑しい帝王へ、あづけてきた。空しくそれを習慣のやうに行つてきた。今こそそれを君たちの間に取かへすのだ。破れ切つた軒端や赤茶けた畳の上に。それから諍ひの好きだつた君達の同胞達のうへに。僕は血の通つた人達だけを好きなのだ。(エリアンの感想の断片)

これはへたな解説は不要なので、このまま読んで伝わってくるもので十分だと思います。これが吉本の終生変わらなかった思想的肉体というべきもので、吉本の思想をおおかたの政治的人間や知的人間の思想と別のものにさせているところだと私は思います。意味だ…

悲しみはこれを精神と肉体とにわけることは出来ない。それは僕らが自覚と呼ぶもののなかに普遍するあのやりきれない地獄なのです。だから悲しみは理由のなかに求めることは出来ません。むしろ存在とともにあるべきものと言ふべきです。僕は数々の死や訣れや、不遇やに出会つたりしましたが、いつも悲しくはありませんでした。強ひて言へば悲しみよりももつと歪んだ嫌悪に似たものでした。(〈少年と少女へのノート〉)

これも微妙なことがらを述べていて、はらわたで聴くしかないものです。現在に関わることが、いつも根源的なことに同時にかかわることだという吉本の資質というか過敏さのようなものがここにあると思います。それが現実に膜をかけているといえばいえるし、現…

原則として語られる限り、言葉は人間の自由にはならない。人間が言葉の自由になるより外に表現は成立しない。この場合人間の思考もまた言葉の自由になるより外ない。(断想Ⅶ)

「言葉の自由になる という言い方はあまりこなれていない言い方だと思います。人間が幼児期に言葉を獲得するときに、すでに言葉は外部に存在します。幼児はそれを習得していきます。しかし同時に言葉は人間が人類史として、どこかで自ら生み出したものです。…

仮りに僕が何者であらうとも、僕の為すべきことは変らない。(断想Ⅶ)

僕が何者であろうとも、というのは様々な解釈ができますが、僕が為した結果がどのようであろうともということではないかと思います。僕が才能のない者であろうとも、僕が貧しさに拘束された者であろうとも、僕が孤立を余儀なくされる者であろうとも、僕の為…

実践によつて現実変革の原理が発見される。併してそれは現実変革の実践へ移行する。(断想Ⅵ)

これは実践という意味が政治的実践ということならば、マルクス主義として昔よく言われていた理論と実践の弁証法的統一というような意味になると思います。マルクス主義の現実変革の理論はマルクス主義の党派が指導する政治的な実践を通して現実の変革を成就…

我々は不思儀にも何らの目的を持つものでない。我々は目的を創り出すことは出来ない。生存の意味がそれを拒否する。(断想Ⅴ)

これは吉本の考え方として何度も登場するものです。つまり目的を持つという以前に我々はすでに無意識の時期としての乳胎児期を持っているわけです。つまりすでに生きちゃってきているわけです。それが生存の意味です。目的というものは我々が言語を獲得し、…

〈反抗の倫理と心理〉反抗の心理のなかに、ひとは例外なく劣等意識を見出さうとする。このことは恐らく正しいだらう。だが何人と言へども現実の桎梏を解き放つことなくして、劣等意識の問題を解くことは出来ない。(断想Ⅵ)

反抗というのは抑圧された者が抑圧している者にあらがうこと、さからうことでしょう。独裁的な政府に対する民衆の反抗、経営者に対する労働者の反抗、教師に対する生徒の反抗、父母に対する子供の反抗。抑圧されているということが劣等意識を生み出す。その…

人間は開花すべき時代をその生涯のなかに有つてゐる。だから人間は未来のために生きるものではない。(断想Ⅵ)

これはマルクス主義的な人間観に対する反抗だと考えるとわかりやすいです。人間は遠くの未来の理想社会のために人生を生きるというようなものじゃない。思想として長い歴史時間を考察することと、100年も生きない短い個人の人生をどう生きるかということ…