私は又、「頭髪を無雑作に苅つた壮年の男が、両手をポケットに突込んだまま、都会の街路樹の下をうつむいてゆく、もしなれたらそういふものになりたい」といふことを、一生の念願とするより外に能のない、下らぬ人間である。(哀しき人々)

これは初期ノートのなかで心に残る箇所でした。これは喩なんですね。このイメージのなかに当時の吉本の心情や倫理や時代や宿命の感覚が凝縮されています。拾い上げてみると、まず「考えること」をしている、というイメージですね。「うつむいていく」というのはそういう感じなんだとおもう。それから文化的な地帯にいない、普通の勤め人かなんかで生きているというイメージです。学者とか文化人という世界にいない。「頭髪を無造作に苅った」というのはそんなイメージだとおもいます。それから都会に住んでいるということですね。あとは反逆性というのかな、じぶんの「考えること」をけして手放さないぞみたいな感じが「両手をポケットに突込んだまま」というイメージに込められている気がします。
このイメージに将来の具体性がないのは、ひとつには戦時中で将来に戦争死が想定されているからだと思いますが、さらにいえば具体的な将来像というものは、「考えること」の徹底性と緊迫性のなかで薄れていくわけですよ。つまり現在の現実を分析して考えて、自分というものの現在の内面を掘り下げてということをしていると、その現実と自己とのぶつかりあいの中にすべてが集中してくるんだとおもいます。将来というものはそのぶつかりあいのゆくえが決めるわけですから、それはやってみないとわからないし二の次になるわけでしょう。だから具体的な将来像というものはどうでもいいというか、どうなってもいい、しかし「考えること」だけは手放さないということになってるんだとおもいます。
吉本はこのイメージのように生きていった気がします。戦争は外側から突然終わり、戦後に工場に入って組合運動を指導してリストラされて、フリーターのような時期を送ったあと知り合いのつてで特許事務所に勤めて、やがて文筆家として生活するようになるわけですが、その人生の転変というものは吉本が想定できないものだったとおもいます。もともと化学の技術者として職業を持ち、普通の生活者として趣味で文学をやるというような生き方をするだろうなと考えていたけれど、そうはいかなかったのだと吉本は書いていました。人生の転変は吉本の資質から湧いてくる「考えること」と現実との角逐が決めていったのだとおもいます。政治活動の渦中にいたときも、パチンコかなんかで日銭を稼ごうとしていたときも、有名になったときも無名のときも、頭髪を無造作に苅ってうつむいて歩く「考えるひと」であり続けたんでしょう。
このへんで「母型論」の解説に移らせていただきます。男と女の本質的な違いとは何か。フロイトは母親が同性か異性かという違いが本質的な男女の違いを形成し、それ以外は相対的なものにすぎないと述べています。吉本はここに真理を視ているのだとおもいます。
フロイトは女性というのは乳幼児期における最初の性的な拘束が同性(母親)であったものをさしている、と述べています。吉本は「最初の<性>的な拘束が同性であった心性(女性)が、その拘束から逃れようとするとき、行き着くのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ」と書いています。また「男性にとって女性への志向はすくなくとも<性>的な拘束からの逃亡ではありえない。母性にたいする回帰という心性はありうるとしても、男性はけっしてじぶんの<男性>を逃れるために女性に向かうことはありえないだろう」と述べています。
この性的な拘束からの逃亡というのはどういうことでしょうか。吉本はこれ以上説明してくれていないんですよ。だから自分で考えたんですが、胎児期から乳児期にかけて子供は母親と一体なんだとおもいます。母親が全宇宙であり、じぶんと母とを切り離すことがまだできない。母親の無意識はすべて内コミュニケーションとして流れ込んできて、母とじぶんの境目がないわけでしょう。その状態から分離してじぶんというものが生じていく。その際に、母が同性であるか異性であるかはおおきな無意識の差異を生じていくのだとおもわれます。母親が同性であるほうが分離が困難であるといえる気がします。
乳児期においては母親が能動的でいわば男性的であり、乳児は男女ともに受動的であり女性的である。しかし受動的に母親からのリビドーの注入を受け入れていた乳児が、次第に能動的なリビドーを発揮するようになるのだとおもいます。そしてその能動的なリビドーの初期は、リビドーに性別はないというフロイトの見解によれば、男女ともに能動的で小さな女の子は小さな男の子と同じだという時期を迎えるのだと考えます。その後に女の子は男女の性の違いに目覚め、女性という性に転換していく。女性は受け身の女性的な乳児期から能動的な幼児期を経て、女性という性に転換するとすれば、女性というものは大変な心的な激変を乳幼児期に無意識に経験するのだとおもいます。男に比べて。
さらに女性の心的なこの激動のなかに、母親が同性であるがゆえに分離が困難だという問題が覆いかぶさると考えてみます。するとリビドーに性別はなくても個体のなかに育つリビドーには傾向性のようなものが生まれるのだということじゃないでしょうか。女性が性の違いがあることに目覚めるときに、じぶんの無意識のなかには同性しかないということになるんじゃないか。それを性的な拘束と呼んでいるような気がします。同性であるがゆえに同性の母の存在は娘の無意識の隅々にまで浸透する。どこからが自分で、どこからが母なのか分離するのが難しい。その難しさと、同性しかいない無意識から逃れようとして女性であることを目指すとすれば、異性を求めることと同性である拘束から逃れようとすることは同じことになるんじゃないでしょうか。それは男性だとどうなのか。
男性は母親が異性であるということで、母親との分離は女性よりは困難性が少ないといえるのではないかとおもう。母親への執着は異性への執着であるから、リビドーが他の異性を求めるように導いたときに、それは異性への執着の方向を変えることを意味するので同性である拘束というものからの逃避ということにはならない。なんじゃないでしょうかね。ここからまたわらわらと色んな疑問がわいてきますし、遅々として考えは進みませんがとにかくじぶんなりに進んでみます。急に寒くなりました。みなさまお体大切に。