青年期にはいりかけた傲倨(ごうきょ)は、すでにじぶん自身がこの教師を必要としないまでに成長したと錯覚させたのだが、後年、気付いたところでは、そうでなかつたのである。その時期からこそ、はじめてこの教師を全て理解する契機をえたことを意味する。(過去についての自註)

この「教師」という人は今氏乙冶といって東京の深川で私塾を開いていたそうです。吉本は小学校の4年生から7年間という思春期と青春期をこの私塾に通ってすごし、大きな影響をこの私塾の雰囲気と今氏さんからうけたと述べています。今氏さんはその後東京大空襲のときに行方不明になってしまうんですね、おそらく戦災死されたんだとおもいます。深川というのは貧しい下町ですから、そこには家族と隣近所と生活と労働の濃密で逃げ場のない世界があったとおもいます。そういうところで暮らしてみるとわかるんですが、人情があり助け合いがあり寅さん映画みたいないいところもあるんですが、そのなかで論理だとか科学だとか思想だとか文学だとかに興味を持ち出した若者にはちょっと息苦しいというか閉鎖的でたまらないものもあるわけですよ。すべてを生活共同体の濃密さに引き戻すような引力があるわけです。吉本の思想の大衆に原点をもとめる特異さは下町育ちという原体験とおおきなかかわりがあります。
今氏というひとの私塾はこういう下町の世界のただなかにある異質な空間だったんだろうと想像します。そこには女生徒も男生徒とほぼ同数いて、勉学の禁欲と性的なめざめとがともに訪れて動揺させるような場であったと吉本は述べています。今氏さんという人は特異な人で、「国語から数学、外国語にいたる万般について、ほぼ中学校(現在の高校)の高学年にいたるまでの全過程をわたしたちに教えることができ、野球から水泳にいたる全スポーツについて教えることができた」と吉本が述べているようにその年頃の子供たちに教えることについての万能をもっていたようです。吉本がこの今氏さんに感じたものは、この万能がほんとうはどういう理由かはよくわからないけれど今氏さんが「個の生涯を埋没させた」とか「生活を放棄した」ということがあり、その代償として子供たちに教える万能を手に入れたと理解しています。つまりこの人はどうしてかはしらないけれど、自分が人生でどうなろうとか何を目指そうという個人的な野心とか願望を放棄しちゃったんだということです。この放棄したということのなかに今氏さんのひとには語らない思想があり体験があると吉本は感じています。今氏さんに接して吉本はにんげんを視る目というか大衆を視る目を開いたといえるんじゃないでしょうか。
この文章はそういう今氏塾にいた吉本が、もはや書物以外に自分が学ぶべき対象はないというように感じ始めて、もう今氏さんなんかは乗り越えたんだというように傲慢に感じていたということだと思います。後年、それは間違いだったと気づいたということは、知の世界から生活の世界に戻る道筋に、つまり「帰り道」に気がついたということを意味するとおもいます。その帰り道に後年気がついたということは、今氏さんという知的な存在であり、「放棄」という生活や人生の思想を秘めた存在を全体として理解できる契機を得たことを意味するともいえます。そして吉本が述懐するには、今氏さんなんか必要としないと感じるナマイキな時期に入った吉本に「寂しい笑い」を見せたということです。今氏さんには吉本のある意味では知的成長であり、ある意味では知的過程に入った青年の傲慢と無知である心性がわかっていた。わかっていたけど今はどうしようもないな、という「寂しい笑い」だったということだとおもいます。いずれにせよ吉本はたいへんおおきなものを今氏塾での7年間に体得したということは確かです。
さて「母型論」の解説に移らせていただきます。男女の本質的な差異ということでぐだぐだ書いているわけですが、大事な論点を思い出したのでそれを解説してみます。「性・労働・婚姻の噴流」(1984 新評論刊)という本があって、そこで吉本が山本哲士という学者と対談しています。イヴァン・イリイチという思想家の考え方をテーマにして労働と性と婚姻という問題を話し合っているわけです。ここで吉本が取り上げている問題はたいへん広汎にわたるわけですが、そのなかから私が関心を強くもったところをつまみ上げるように解説します。物足りないひとはイリイチや吉本の本を直接読んでください。
労働と性ということでは何が問題になるかというと、労働というものは現在の社会では性、つまり男女の違いということは重要ではないとみなされてきたんだけど、イリイチはその通念に対して本格的な異論を提出したということだとおもいます。労働において性が問題にされないということには吉本が述べるにはマルクスの理論がある。マルクスの理論では労働と性というのは、分業の起源のところで問題にされる。マルクスは分業のいちばん根源にあるのは性的な関係における男女の分業だということになります。つまり性行為とか妊娠・出産というにんげん自体を産み出す自然的な性のありかたにおける男女の分業です。分業という言い方は経済学っぽくて違和感がありますが、それを分業と呼べば、それが分業の根源にあるとマルクスはみなしています。その次の段階にくるのが体質とか、男女の体力差とか資質とかいう自然的素質における男女の区別がつくる分業だということになります。この2番目の段階の次にくるのが精神的な労働と肉体的な労働の分業であって、それは古典近代国家社会のモデルになってはじめて生じるとマルクスは考えます。古典近代国家ということは資本制ということになるわけですが、資本制に置いては労働時間ということの違いが本質になって、その労働にたずさわった者が男か女かとかどういう資質のにんげんだったかということは本質的な問題にならないというマルクスの理論があるわけです。
それに対してイリイチは資本制である現在の社会でも男女の違いというものが本質的な意味をもつという異論を提出したということになります。イリイチは「シャドウ・ワーク」という概念を提出しています。シャドウ・ワークというのは産業社会のなかで賃労働のように報酬を受けることのない労働をいいますが、その中心は家事労働とみなされているとおもいます。女性が主に担う家事労働というシャドウ・ワークが産業社会における本質的な問題たりうるというイリイチの思想の本格性というものがあるのだとおもいます。それでイリイチの指摘をうけとめて、現在の資本制社会のなかでも男女の違いが本質的な意味をもつと考えると、産業社会の分析においても男女の違いというテーマを取り上げざるをえないということになります。では男女の本質的な違いとはなんだろうという母型論のテーマと産業社会分析のテーマがつながってくるわけです。
吉本は対談のなかで、男女の本質的な違いというものは現在の男女の差異や差別を減少させようという傾向が徹底的に進んだ先に姿をあらわしてくる問題だろうと述べています。男女の差というものがどんどんなくなってくるときに、対幻想という幻想の問題としていえば男女の幻想としての差がなくなったときに、対幻想における本質的な男女の差異というものがあらわれるということを述べています。そうだとするとどんどん男女の差異をなくしてしまおうというフェミニズムのような考え方からすると、女性だけが子供を産まなければならないという違いが最大の問題だということになってきます。山本哲士はこのことを「産む性」と呼んで重要視するわけですが、吉本は子供を産むということは男女の本質的な違いにはならないと述べています。それはなぜかというと近い将来に人工的な子宮が作られて胎外での妊娠・出産が可能になるだろうということです。今までの歴史においては女性が産む性であったということはもちろんたいへんに重要な事柄だったわけですが、それは近い将来に解決されてしまうであろうという見解を吉本はもっています。であるとすれば産むかどうかということが男女の本質的な差異だということにはならないことになりましょう。
すると男女の対幻想における本質的な差異とは何かということに再び戻ります。それはフロイトのいう母親が同性であったか異性であったかだけが男女の本質的な差異で、それ以外は相対的なものに過ぎないということでしょうか。その男女の本質的な差異というものが現実の社会のなかで明瞭になっていく時代がだんだんやってくるということになるんでしょう。
男女の差異ということについてはイリイチのほかにドゥルーズガタリという思想家の「n個の性」という考え方がこの対談では取り上げられています。これは男女の性の差異という枠組み時代を批判する新しい考え方ですが、それに対する吉本の考え方のなかで「アジア的」という概念のなかにおける男女の対幻想の問題が語られます。今回はそこまで解説する余裕がないんですが、吉本の思想の分野の相互の関連性というか全円性というものが、こうした追求のなかで姿をあらわしてくるのがわかります。