私は彼の出処行蔵を検討してゆくうちに、そのなかに彼の行為の言動となつてゐる思想が全く日本的であるといふ事実を発見致しました 私はここでそれを例証する繁雑さをさけたいと思ひますが、その事実は実に不思儀に思はれて来ました 彼の作品の中の非日本的な豪華さや、彼の感覚や言行の汎人類的な主張と、彼の行為の背後に流れてゐる無形の日本的な思想と、それらは如何にしても調和するとは考へられませんでした(創造と宿命)

グスコーブドリの伝記」の特徴として吉本があげているのは自然観以外にもうひとつあります。それは「超人になりたい」という宗教的な願望です。超人、あるいはにんげん以上の存在になりたいというのは、法華経でいえば菩薩になりたいということになります。そのために宮沢賢治はたいへん無謀な無理なことをして寿命を縮めたと吉本は述べています。またそのために普通に給料をもらって暮らすという自ら境遇を壊して、その結果一生親がかりで親に経済的に依存せざるをえない情けない状態を抜けられなかった。そうした現実の宮沢賢治と宗教的な願望としてのにんげんを超えたいという心がブドリの最後の姿に込められているとみることができます。宮沢賢治のなかにある日本的な思想というものが何を指しているのかよくわかりませんが、その湧いてくる源泉は宮沢賢治が科学者として宗教者としての願望がぶちあたってくだけてしまう岩手県の現実のなかにあっただろうと思います。それを無視して知の世界にこもることは彼にはどうしてもできなかった。非日本的な普遍的な思想の持ち主が幾度もぶつかった日本の大正時代の地方の現実が、宮沢賢治の文学者としての巨きさを作っているのだと思います。

おまけ
「グスコンブドリの伝記」より      宮沢賢治

クーボー大博士が云ひました。
「きみはどうしてもあきらめることができないのか。それではこゝにたった一つの道がある。それはあの火山島のカルボナードだ。あれは今まで度々炭酸瓦斯を吹いたやうだ。僕の計算ではあれはいま地球の上層の気流にすっかり炭酸瓦斯をまぜて地球ぜんたいの温度の放散を防ぎ地球の温度を七度温にする位のカをもってゐる。もしあれを上層気流の強い日に爆発させるなら瓦斯はすぐ大循環の風にまじって地球全体を包むだらう。けれどもそれはちゃうど猪の首に鈴をつけに行く鼠のやうな相談だ。あれが爆発するときはもう遁げるひまも何もないのだ。」
ブドリが云ひました。「私にそれをやらせて下さい。私はきっとやります。そして私はその大循環の風になるのです。あの青ぞらのごみになるのです。」