ある現実的な体験は、体験として固執するかぎり、どのような普遍性をももたないし、どのような歴史的教訓をも含まない。ただ、かれの「個」にとつて必然的な意味をもつだけである。この体験の即自性を、ひとつの対自性に転化できない思想は、ただ、おれは「戦争が嫌いだ」とか、「平和が好きだ」という情念を語つているだけで、どんな力をももちえないものである。(過去についての自註)

体験から思想は生まれる。しかし体験を思想として練り上げることをしないから、ただ体験につきまとう情念をもちうるだけだ。そして情念は年月のなかで風化してしまう。逆にいえば、どんなに卑小な閉ざされたアンタが思っているように取るに足らないような経験と思われるようなものでも、それは掘り下げることによって普遍的な本質に到達する可能性をもっているんだと思います。

おまけです
「〝終焉〟以後」(昭和37年10月「試行」)      吉本隆明

思想はそれが単独のものであれ、集団的なものであれ、いつもか細いひとすじの軌跡によってしか未来へ到達しない。その余は中道で死滅する。わたしは、未来はわれわれのものだなどというたわ言を頭から否定するし、それは、あきらかに現在死んでいる思想にしかすぎない。か細い思想的な軌道は、ただ大衆個人の生活によってのみ結果的に表現される。