体験の対自的な思想化ということは、とくに日本のばあい不可避であり、不可欠であるといえる。このような構造をあたええない、どんな普遍的な「立場」も、すくなくともわが国では、永久に不発におわるだろうと断定することができる。(過去についての自註)

この文章は吉本が自らの思想を築く実践的な支柱のようなもので、この柱の上に様々な思想的な仕事が広がっています。まず自らの体験があり、それを論理によってほじくり返す。徹底した論理性を体験に与えることによって、自らの体験を普遍化し抽象化していく。抽象化された論理も下降していくと体験に降りていくことができ、閉ざされた体験も論理的に上昇して抽象化された論理に登っていくことができる。その体験と抽象的な論理との上昇下降のつながりが、とくに日本にとって不可避で不可欠だというのは、日本にとってというよりアジアにとってということになると思います。アジア以外の世界は西欧ということになりますが、このアジアと西欧という特性の考察の基底にあるのはヘーゲルだと思います。
ヘーゲルはアジアの原理は「自然」でヨーロッパの原理は「自由」だと考えた。アジアは自然というものを離れて思想を展開することができない。自然と合一するとか、自然をどう考えてそれを宗教にするかとか、自然をどう人間の規範にするかとか、自然をどう征服するかとか、いずれにせよ自然というものが常に対象としてあるという考え方になる。それに対して西欧は自由というものが原理である。自由というのは、個人の内面の世界をどこまでも拡大し深めていくことができるというところに成り立つものだ。自然から思考を切り離して内面をそれ自体として対象とすることができる。この内面の無限の拡大ということが自由の概念です。
このヘーゲルのアジアと西欧についての原理的な考察は吉本を深くとらえています。一見おおざっぱで古臭いように見えるが、ヘーゲルの分析は極めて正確で現在にも生きていると吉本は考えます。そうした停滞したアジアに西欧が侵略してきて、日本は明治以後に本格的に西欧の思想を取り入れざるをえなくなった。しかし西欧の思想は根底のところに内面の論理化という原理があって、その上に様々な思想が花開いている。そのような内面の論理性のない日本が西欧の思想を取り入れると、いわば根のない枝や花だけを地面に接ぎ木するようなもので時間が経つと枯れてしまう。枯れてしまうとこんどは別の西欧の新思想をまた根のない接ぎ木として移植する。そういう文化的な伝統が生まれてしまう。その貧しい伝統を断ち切るには、体験の対自的な思想化という根っこを自ら作り出すしかない。それが若き吉本の優れた見識であり、単独で背負った思想的な重荷だったと思います。
その思想的な重荷を背負い、ヘーゲルがアジアの原理は自然だと看破した日本の共同性の本質の論理化に挑んだ論考のひとつが「共同幻想論」です。共同幻想論は「遠野物語」と「古事記」を原典に選んで、原始・未開の共同幻想から国家の起源となった共同幻想までを解明しようとしたものですが、こうした論文の根っこには吉本の自らの体験を論理化した思想というものがびっしりと根を生やしていると思います。
さてこのへんで「母型論」の解説にからめて共同幻想論の女性の本質を述べている箇所に触れていこうと思います。「母型論」の解説がさしかかっているのは幼児期における男女の性的な分化ということです。「母型論」はにんげんの原型を解明しようとするがゆえに、吉本の展開した様々な思想に関連付けることができるし、さらに吉本の思想を展開させる契機ともなりうるものだとわたしは思います。吉本はその途上で前を向いたまま倒れてしましましたが、その思想もまた前に向かって開いているものだといえるわけです。
共同幻想論のなかに女性の本質についての吉本の考察が述べられています。吉本の述べている重要なことは、男女の分化ということは身体機能における男女の機能的な分化だけでとらえることはできないということです。男女の作り出す幻想は(ここでいう幻想とは吉本の概念では観念やイメージは情緒までも含んだ内面性です)、「対なる幻想」という幻想に属することになります。対なる幻想は徹底していえば男女というだけでなく、一対のにんげんとにんげんが作り出す幻想全般を指すものですが、その典型は一対の男女の性的な結びつき、つまり家族を作る男女の性的関係に伴う幻想だと考えてよいと思います。共同幻想論のなかの「対幻想論」にこういう記述があります。
「<性>としての人間はすべて男であるか女であるかのいずれかである。しかしこの分化の起源は、おおくの学者がかんがえるようにけっして動物生の時期にあるのではない。あらゆる<性>的な現実の行為が<対なる幻想>をうみだしたとき、はじめて人間は<性>としての人間という範疇をもつようになったのであるといえる。<対なる幻想>がうみだされたことは、人間の<性>を社会の共同性と個人性のはざまに投げだす作用をおよぼすことになった」
ここで言われていることは、人間の性の男女の分化は動物のオスメスの分化とは異なるということだと思います。人間も動物の一種だから、動物と同じように身体機能的に男女に分化する。しかし人間だけがもつ幻想性が対幻想という幻想性を生み出し、人間だけがその対なる幻想性のなかで男と女になるということでしょう。つまり男と女というのは対なる幻想性の内部でのみ成立する概念だということです。そして対なる幻想性は、共同の幻想性と個的な幻想性のはざまに投げ出されるということになります。こうした考察はフロイトのなかにはない。対なる幻想という独自の内面性を範疇として置くという発想はフロイトにはないのだと思います。フロイトの男女の分化に対する考察は、特に女性の性としての転換(クリトリスから膣への転換、対象愛の母親から父親への転換)という鋭い不朽の観点を提示しています。しかしそれが男女の分化に至る道筋に「対なる幻想
という範疇を設定しないために、なにか無理につなげたような納得のいかない感覚が残ります。そこが後年にフェミニズムの女性の理論家たちから激しい反発と批判を受けた理由かもしれません。
「対なる幻想」という考えかたから導かれた吉本の女性の本質論は「巫女(みこ)論」に触れられています。結論から引用すれば
「あらゆる排除をほどこしたあとで<性>的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ、と。そしてほんとうは<性>的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味してはいない。なぜならば、このふたつは女性にとってじぶんの<生誕>そのものをえらぶか<生誕>の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならないからである」
こうした分析が「母型論」の追求に関連することは明らかです。つまり「母型論」に結晶するはるか以前から吉本には「母型論」的な関心と追求が存在したということになります。この引用された文章の解説を通して、母型論と共同幻想論を関係づけて男女の分化という課題に迫っていきたいと思います。次回にね。