かくして、かれらは、自らの力では、永久に現実を変ええないで、他力だけを頼みにする論理を、勢いにつれて行使し、勢いの衰弱とともに失うという循環をくりかえすにすぎない。(過去についての自註)

これは自らのちからで現実自体から論理を築くことができないというアジア的な特質を突いたことばですし、だから私じしんにも突き刺さってくることばですね。もちろんあなた自身にもね。勉強するのは結構だけど、勉強なるものの結果が偉大な知的な人物の思想を覚えて、それを自分が考えたかのようにふりまわすだけで終わるなら、勉強なんかしないけどもともと自分の現実自体に根をはり実をつけた庶民的な生活思想の重さにかなわないわけです。ただかなわないということも自覚しないで得意になっているだけで。そして借り物の思想が借り物の限界をろていしてしまったら、もう得意になっていられないで勢いを失って消えていく。そういう連中が文化の世界にも政治の世界にもたくさんいたわけです。それはじぶんの力でじぶんの現実を掘って、生活思想を越えていける抽象の力で思想を作れなかったからだと吉本はいっているのだと思います。
吉本は「考える人が過半数を占めれば、世界は変わる」と述べています。(「家族のゆくえ」2006年光文社刊より)この「考える」というのは社会のこと世界のことを考えるという意味です。吉本は社会のことというと「普通、<やる>ことは<考える>ことより大切だとおもわれがちだが、わたしはそんなことは信じていない」と述べています。そして文学者で政治思想家でもあった埴谷雄高にそういう意味で感心したといっています。「埴谷雄高花田清輝との論争のなかで、クモの巣のかかったような部屋に引きこもっていたって革命家は革命家なんだと明言した。そこまで言い切った人はいない。当時世界中にひとりもいないといってよかった」と吉本は述べています。アジア的な世界は西欧に対して後進国なわけですが、そこでは思想が借り物であるのと同じ水準で行動することが考えることより優位に置かれるのだとおもいます。考えることの中身を問う以前に行動することの優位とおもいこんで、行動しない者を脅すという感じです。しかし埴谷雄高のいうように社会について考えることが社会を変え、国家を変える力をもつ。それは政治行動をすることの優位にあるべきものだ。だから社会について真理に近い考えかたをする人が過半数を占める社会になるならば、それだけで社会は変わるんだと吉本はいうわけです。
さてそういうわけで「母型論」についていっしょに考えましょう。男と女は、いや原理的にいうならばひとりの人間は他のひとりの人間に対して「対なる幻想」をもつ。その対幻想の原型はやはり一対の男女の対幻想にあると考えます。しかし男の女に対して抱く「対幻想」と女が男に抱く「対幻想」は本質的に異なっている。それはどう異なっているのかが男と女の本質的な違いを意味しているわけです。ここにぶちあたって考えているわけですが、あなたどうおもいます?
わたしは自分が男だから女のひとのことがよくわからないんで困りますよ。
フロイトも述べているし、吉本も言及しているんですが、女の子の「人形遊び」という現象を取り上げてこの問題を考えるきっかけにしたいとおもいます。吉本は「対幻想」(芹沢俊介との対談。1995春秋社)のなかで女の子の「人形遊び」に触れています。少女期に入りかける前期までは女の子は人形遊びをするが、男の子はしない。その時期の女の子は幼児期あるいはもっと前の乳児期のじぶんを人形にしておいて、それで自分を母親にして、人形遊びのなかで母親とじぶんのかっての関係を再現しようとすると吉本は述べています。それはなぜかというと、「女の子の場合には母親が父親がわりで、じぶんが女性でという乳児期体験から母親と同性だという意識が出てきて、それとの矛盾といいましょうか、それはもう一度どうしても解決したいみたいなことは、無意識にあるんじゃないなとおもうんです」と吉本はいっています。男の子が人形遊びをしないのは「男の子はもう乳児期に入りかけたときには、つまり三歳以前だったら、母親のほうが男のといいますが父親がわりで、じぶんのほうは女の子でという母親との関係が、だんだんリアルでない無意識の関係から、ほんとは身体的には異性であるという意識的な関係に移っていくというようなことで理解できるわけです」と述べています。
乳児期に能動的に育児をする母親に対して、乳児は男女ともに受動的でいわば女性的であるというところが初源的にあって、そこから男女の性の意識が分離するわけですが、女性のばあいは母親も同性(女性)であると意識するということがこの分離を困難にするのだとおもいます。乳児期に受け身で女性的であり、そこから男性的なリビドーの発現という時期があり、そして女性であるという性の意識に変わっていく、その激変する性の無意識と意識の世界を乗り越えようとする女性の特有の困難が人形遊びとしてあらわれているということだとおもいます。いいかえれば女性は母親が同性であったということを性的な拘束性として感じていて、そこから逃亡することの願望が根源的にあるんだということかと私は考えます。すべてが女性であるという女護ヶ島のような宇宙から脱出するという願望です。それは異性としての男性を求めるということに通常はなりましょう。その最初の対象は父親なんだと思います。それは吉本がいう女性はとことん追いつめた時に出てくるのは「女」ということで、男性は「人間」ということになると述べていることにつながるんだとおもいます。
吉本の「共同幻想論」では、女性が母親が同性という性的な拘束性から逃避しようとして異性を求めて、しかしその願望が達成されなかったとき、女性は性的な対象を架空のものである共同幻想や自己幻想に求めるといっているのだと私は考えます。異性を求めるという願望であり欲望であるものが達成されなかったり、絶望を味わったり、もともと男女の分離のじきに分離がうまくいかなかった内因を抱えていたり、なんであれ異性である人間へという道が途絶えた時に、共同の幻想や自己幻想に性的対象を移すものを女性というのだというのが吉本の定義なんだとおもいます。それは女性はとことん性的な拘束性からの逃亡を、つまり「女」であることを貫徹する本質をもっているということだと思います。男はそうはならないんだと思います。それは男は異性としての母親が無意識にあるからだとしか考えられません。つまり男はいわば無意識としては自足しているんだといえるのかもしれません。それで男はとことん追いつめれば「人間」という観念に収斂する。その「人間」というのは無意識的には「男だけの世界」であるホモ・ジーニアスの世界(ホモセクシュアルということとは別で均質ということ)だということのように私はおもっています。
女性が共同幻想を性的な対象とする事例はたくさんあるとおもいます。「共同幻想論」では「遠野物語」に登場する巫女や、聖テレサという修道女の事例を取り上げている。聖テレサについての記述のなかに女性が共同幻想とともに自己幻想を性的対象にするということの示唆があります。
「この<聖女>にとって理神論的な<神>は幻想の<性>的対象である。そして、この<聖女>にとって、はじめに<神が在る>ことは理念として前提にされているため、この<神>は共同幻想と拡大された自己幻想との二重性を意味している。この<聖女>は、じぶんが拡大され至上物に祭りあげられた自己に憑いている意味ではじぶんをじぶんの対幻想の対象にしている自己<性>愛者であるが、理神論的な信仰を前提としている意味では、カトリシズム的な共同幻想を<性>的な対幻想の対象に措定しているということができよう」(「共同幻想論」の「巫女論」より)
共同幻想が宗教であるばあいは、宗教は無限に上昇し拡張しようとする自己幻想のことであるという意味で、宗教は共同幻想と自己幻想の二重性を帯びている。巫女や聖女が共同幻想の象徴である「狐」や「蛇」や「神」を性的な対象とするときに、それは拡大した至上物に祭り上げた自己幻想をも性的対象にすることを意味している。このことを別の個所でも吉本は述べている。
「そしてほんとうは<性>的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味してはいない。なぜならば、このふたつは女性にとってじぶんの<生誕>そのものをえらぶか<生誕>の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならないからである」
(「共同幻想論」の「巫女論」より)
この引用にはニュアンスがある。それは女性が性的対象を共同幻想や自己幻想にえらぶときは、女性の<生誕>への退行だというニュアンスだ。ここから女性と男性の精神的な障害のあり方の差異に考えを進めていきたいが、もう時間がないのでまた今度。おつきあいありがとうございました。