それは実に大きな悲しみであり、私達の魂を奥底からゆさぶつてさらひ去つて行くやうなものなのです 何か自然の悲しみと言ひませうか、山川草木の悲しみと言ひませうか、その様な確かに宇宙の創造的な意志に付きまとふやうな本質的なものなのです (宮沢賢治童話論)

その悲しみはひとつには魂の奥底からゆさぶるようなものだということであり、もうひとつはそれが「わけがわからないところにわけのわからいことろ自体としてある」ということなんだと思います。つまり二重になった悲しみです。そこで吉本は少なくともわけがわかるものにしようとするんだと思います。もしわけがわかるようになったところで、魂の奥底をゆさぶるような悲しみ自体は消えないでしょう。誕生したということ、死んでいくということの山川草木の悲しみにつながるような生命の悲しさというものは心を揺さぶり続けるのだと思います。しかしわけのわかるようにしたいということだけは手放さない。それが吉本の生きざまだったと思います。昔、講演会で聴衆のなかの年配のおっさんが吉本に、「わたしのような平凡な人間は、人生の終盤にさしかかって、どういうふうに考えるかというと、諦めというか諦観というか、そういうものに心を惹かれるんですよ」といったわけです。すると吉本は「よくわかります。日本の優れた思想家、文学者たちは晩年になると一様にあなたのいわれるような東洋的な諦観に到達します。すぐれたものほどそうなるといえます。しかし僕はまだ頑張りたいんですよ。諦めたくないんです」と答えました。そして諦めずに倒れたんで、そういう吉本を知ってほしいと私は思います。

おまけです。宮沢賢治の文章のすばらしさをご堪能ください。
「猫の事務所」より         宮沢賢治

こんな工合ですからかま猫は実につらいのでした。
かま猫はあたりまへの猫にならうと何べんも窓の外にねて見ましたが、どうしても夜中に寒くてくしゃみが出てたまらないので、やっぱり仕方なく竈のなかに入るのでした。
なぜそんなに寒くなるかといふのに皮がうすいためで、なぜ皮が薄いかといふのに、それは土用に生まれたからです。やっぱり僕が悪いんだ、仕方ないなあと、かま猫は考へて、なみだをまん円な眼一杯にためました。
けれども事務長さんがあんなに親切にして下さる、それにかま猫仲間のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこぶのだ、どんなにつらくてもぼくはやめないぞ、きつとこらへるぞと、かま猫は泣きながら、にぎりこぶしを握りました。