2008-04-01から1ヶ月間の記事一覧

「人はいつも手段によって進む。つまり仕事によって。僕が何かしなければならぬと感ずる焦燥は、いつも手段を探してゐることになるようだ」(風の章)

これは仕事というものについての考え方を述べているわけです。ここで吉本が仕事と言っているのは、いわゆる職業と同じ概念ではないと思います。職業とは働いて金を稼ぎ生活するものです。いわゆる生業(なりわい)です。人は学校を卒業して社会に出る年頃に…

「何人も仕事を持たねばならない。僕は、何度そのやうに自分を強いる言葉をくりかへして来ただらう。そして僕はいまもそれを(仕事を)もってゐないのだ。これは異様につらく悲しいことだ」(風の章)

悲しいことですね(〜〜。) 悲しい貴方にポエムを贈ります。 吉本隆明階段を昇るとき はじめの一歩が ちょうど右足にかからなければ その日は凶だ そんな占いに幼い日凝つた おぼえがあるか あの不安には未知の日々がひらいていた 不安といつても 親しみがど…

「若し我々が発展を必要としないとするならば、我々は現実をも必要としないことになる」(方法について)

この文章はひととおりの意味でいうと、思考や行動に方法がないと発展がない、発展がないと思考や行動が、感覚で捉えられる生活世界の外側の現実に接触することができない、つまり世界とか社会とか歴史とかに出会うことができない、ということを述べているの…

「方法は、その抽象性によりして、決して自ら閉ぢることはない。方法は発展する」(方法について)

ヘーゲルにしろマルクスにしろ人間の根源的な秘密を洞察しています。その洞察が方法になっているわけです。多くの知識を知っていたから方法が成り立ったのではなく、人間に対する洞察があったから方法がなりたったのです。その洞察はどこから来たのでしょう…

「一貫せる行為と思考とを要しないところに、方法は必要ではない」(方法について)

自分のプライヴェートな体験とそれが通過した自分の生活圏というものを考えます。まずは自然な思考の働く範囲と対象は、そうした身の回りの環境や体験でしょう。自分の通った学校や、暮らした町や、働いた会社やお店。家族、友人、恋人、近所の人々。その中…

「方法のない行為と思考とは循環である。循環は深化することが出来るが、決して発展を生まない。」(方法について)

生活圏の行為と思考は方法のない循環です。つまり繰り返しです。今日も魚を売り、明日も魚を売る。今日も満員電車にゆられ、明日もゆられる。そうした繰り返しのなかで結婚し子を産み、老いて忘れっぽくなって女房が逃げたりいろいろあって、最後にへろへろ…

「方法とはひとつの抽象された実体である」(方法について)

この「方法について」という初期ノートの章は12本の短い文章(断章)で成り立っていて、上の文章もその一つです。この章には、吉本の考える対象というよりも、考えること自体についての特色がよくあらわれていると思います。吉本さんは化学を学んできまし…

「方法は、習慣性を可能ならしめる手段を提供する。習慣性は、それなくして我々の思考が歩むことの出来ないものである。そのことは結局、我々の行為が歩み得ないことを意味する。少なくとも一貫せる行為が」(方法について)

これは前半のゼミの断章の続きです。実体のような包丁のような方法というものは、一回使って使い捨てというものではなく、何度もあらゆる対象に対して分析に耐えるものです。したがってそれは分析を繰り返し広げていく毎日に耐えることですから、習慣性を可…

● 「人間は抽象的な原因で死を選ぶことは出来ません。何故ならば、死は最も現実的な事実を指すものだからです。死の選択には、当然、原因が要ります。そうと思はれない場合にも矢張り、生理的衰弱があります。」(少年と少女へのノート)

これは人は何故自殺するのか、という問題です。自殺をする人は死の意味づけを自分でする場合があります。例えば三島由紀夫は自衛隊の市谷駐屯地で、自分の腹をかっさばいて、首を盾の会の隊員の介錯で切り落されて死ぬという凄まじい自殺をしました。三島は…

● 「一つの生涯が一つの可能性しか歩めないといふ人間的原則のうちにかくされてゐるものは何か。僕らはここで古代人にかへってみるべきだ」(夕ぐれと夜との言葉)

これは小林秀雄が批評の出発にあたって掲げた「宿命」ということで、以前に書いたことがあります。人はサラリーマンにもなれたろうし、政治家にもなれたろうし、商人にもなれたろう。しかし彼は彼自身にしかなれなかった。血管の中をめぐる真実はひとつだけ…

「我々はひとつの生存の形式をもってゐる。その形式は精神的には自由のためにあり、しかも自由を阻害するものに対する反抗としてある。」(断想Ⅴ)

これはこの文章だけでは何を言っているのかよく分かりません。この頃書かれた他の文章を読んでいくと、おぼろげながら何を言いたいか分かる気がします。生存とは生きていること自体ですが、職業だの生まれ育ちだの貧富だのという違いが生ずるより、もっと根…

「我々は、生存せんがために生存そのものを持ってゐる。これ以外のあらゆる生存の意味附けは観念にすぎない。観念なるものは、一切虚偽である」(断想Ⅴ)

生存には形式がある。あるいは構造がある。ただ生きているということについて語ることに、私達アジアの人間はよくなじんでいると言えます。それは仏教などのアジアの宗教がただ生きているという自然に近い人間のあり方について多くを語ってきたからです。し…

「超越的なものはすべて虚偽である。観念的な思考はすべて虚偽であるのが、抽象的な思考は虚偽ではない」(断想Ⅴ)

この文章は、後半のゼミの文章に続いています。観念的な思考とは現実からいかなる源泉も得ていない思考であり、抽象的な思考とは、現実からの抽出に関与する思考である、ということです。超越的なものというのは現実を超えて存在すると見なされる絶対的な観…

「観念的な思考と呼ばれるものは、それが現実から如何なる源泉をも得ていない思考である。抽象的な思考とは、現実からの抽出に関与する思考である」(断想Ⅴ)

前半のゼミの文章の続きです。観念的な思考をする者は要するに子分肌の奴ですから、大変なことは親分にまかせて、親分の下で群れをなしていればいいわけです。しかし抽象的な思考をしようとする者は、自分自身の現実の存在から、自分自身の抽象をおこなって…

「反抗精神をひとつの倫理として規定することこそ、アジアの風土が加ふべき殆(ほと)んど第一義の問題である」(断想Ⅳ)

反抗精神がアジアにとって第一義の問題かどうかは私には分かりません。しかし吉本が言いたいことは少し分かります。それはアジアとは何か、という問題です。吉本のアジアに対する理解はヘーゲルやマルクスに拠っています。マルクスによれば人類の歴史の段階…

「精神はその閉ぢられた極限において神と結合する。精神は、その開かれた極限において現実と結合する」(断想Ⅳ)

これも本当に吉本の言う通りなのかよく分かりません。しかしこの言葉の背後には、戦時中定められた将来の戦争死を前に、天皇に自分の死の理由を求めた吉本の体験があります。従ってこれは単なる論理ではなく、体験的な論理です。 過去を切り捨てずウソをつか…

「併(けれど)も、不幸の解決は正しく僕のみにとっての解決であり、僕のみの喜びである。そしてこれは、他の喜びに転化するを得ないものだ。ここに不幸といふものの特質があると思はれる」(不幸の形而上学的註)

最初から吉本隆明の詩を読んでいただきます。「異数の世界へおりてゆく」 吉本隆明異数の世界へおりてゆく かれは名残り をしげである のこされた世界の少女と ささいな生活の秘密をわかちあはなかつたこと なほ欲望のひとかけらが ゆたかなパンの香りや 他…

「それ故、不幸は嘆かるべきでなく、掘り下げるに値するのみである」(不幸の形而上学的註)

これは前の文章で書いてしまったこととだぶります ( ̄~ ̄;) 個の世界とは何でしょう。私にもよく分からない。人間は母親の胎内から生まれ、母親に包摂され、交流することが生の始まりにあります。これは誰もがそうですよね。 人は一人で生まれ、一人で死ぬ…

「僕らは、精神のはたらきを倫理のうちにはたらかせるとき、如何に生きるべきか、といふことを解きつつあるのだといへる。ここでいふ倫理とは決して、道徳律をさすものではない。ほんたうに深くされた精神は、わけても正義や道徳の匂ひをきらふものである」(断想Ⅲ)

ではまず一曲。「廃人の歌」 吉本隆明ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考えてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でをはる ぼくはそれを考へてゐる 明日は不眠のまま労働にでか…

「我々は、ひとつの設けられた陥落にたいしては、いつも開かれた精神でむかふことが必要である。何故かといふと、閉じられた精神は、陥落におちこむと、自らを枯らさうとする自己運動をするからである」(断想Ⅲ)

陥落と言っているのはありふれたことでいいわけです。夫婦がうまくいかない。恋人とうまくいかない。職場で上司とうまくいかない。職を負われて仕事がない。家族の介護で疲れ果てた。それが陥落です。 開かれた精神とは、その自分だけを襲ってきた、自分だけ…

「理性はいつも一致を願ふけれど、感情は乱れることを願ふものだ」(忘却の価値について)

これは分かりやすいことを言っていると思います。理性というのは、現実や体験を言葉によって概念に置きなおし、概念は他の概念との関係づけによって、さらに抽象された概念を作り出そうとする営みのことだと思います。理性は、論理を駆使することによってす…

「不幸といふのは言はば欠如の感覚であるが、この欠如が、時間的に永遠の感覚に、又、空間的には人間性の共通な課題に結合するのでなければ、僕らはそれを自らの欠如として感ずるに値しないものである。不幸であるといふのは、正しく僕を訪れる感覚であり僕のみに関与するものであっても、僕がそれを一般の不幸として感じないとすれば、何を得ることが出来るだらう」(不幸の形而上学的説)

自分自身の小さな生活の中の哀しみや欠如感。それを普遍的なものに関連付けたいという吉本の精神の特徴は分かりにくいものだと思います。私はそれは吉本が自分の欠如感の底にあるものが、精神を精神にとっての自然というところにまで降ろしてみないと解けな…

「一般に欠如の感覚は、欠如を満たすことによって消解するのではなく、正しく僕の経験によれば、掘り下げることによって消解するのである」(不幸の形而上学的注)

例えば英語ができない。これじゃダメなんじゃないか、という焦りがあるとすると、これを欠如感と呼ぶ事ができます。もうこの年齢で結婚してないとダメなんじゃないか、とか。女房に逃げられたままじゃダメなんじゃないか、とか。 こういう欠如感を感じると、…

「人間は、他の者の不幸を如何にしても消解せしめることはできない。若し、その不幸が普遍的な現実の問題に関わるものでないかぎりは。僕は、慰めの感情によって不幸に対する者を信じない。共鳴によって対する以外にない。それが解決でないとしても」(不幸の形而上学的注)

ここで不幸と呼んでいるものは、前の文章で欠如感と呼んでいるものと同じです。自分が不幸を埋めようとしても、他人が埋めてあげようとしても、いっときできても消してしまう(吉本は無化するという言い方をよくします)ことはできません。その不幸を掘り下…

「若し人間が動機によって動くものであるならば、歴史は動機の連鎖によって描 かるべきである」(秩序の構造)

動機というのは内面のものです。モチベーションです。この動機がなんであれ、それが現実に激突するとある軌跡を描きます。つまりこうしたいと思うことを本気でやると、それなりに現実にもまれるわけです。そして動機とは異なった結果を生み出します。しかし…

「人間が若し何物かを欲するとすると、それは必ず必要であるものを欲することは明らかである。ところで、或るものが必要であるといふことは、それほど解り易いことではない。必要は、真に欠乏しているにしろ、或はそうでないにしろ、欠乏の感覚に由るものであるように思はれる。それは、言はば、均衡の欠如を充すひとつの感覚である」(秩序の構造)

これも秩序をささえる感性の秩序ということで、以前に書いたことがあるので、少し違うことを書かなくてはなりません。だんだん苦労が増えるわけです・・・ 私達は何かが足りないという意識に苦しみます。もっともっと何かが必要であると。私事で恐縮ですが、…

「批評家だけが批評をなし得る」(原理の照明)

ここで批評家と言っているのは、批評をすることから逃れられない資質を持つ者という意味です。批評家という職業をやっているという意味より、もっと根深いところを指しています。批評的であるしかありようのない資質のことです。それはどういう資質なのか。 …

「精神はやがて社会化せられるだらう」(原理の照明)

ここでは25歳の吉本が敗戦後はじめてマルクスを知り、その思想を辿っている姿が顕れていると思います。社会の中の人間、つまりあなたや私が取りうる精神的な態度の理想は、この社会とか歴史とかの大きな視野を手に入れるということになるでしょう。 しかし現…

「優越に向ふ心理に対してこそ、人間は生涯を企して闘ふに値ひする」(原理の照明)

私達は物心がついた時にはすでにどこかへ向かって歩いている、あるいは歩かされていることに気がつきます。それは親が学校が周囲がそのようにしむけているからです。勉強のできない方から出来る方へ。スポーツのできない方から出来る方へ。怠惰な方から勤勉…

「偶然はしばしば焦燥を抱かしめるが、その焦燥は偶然を必然と感じるところから由来する」(原理の照明)

ここで必然という言葉で指しているのは内面的な必然性のことだと思います。自分の心の奥にある願望とか怒りとか資質とかが原因となって自分の精神が形成されますが、その自分の意思ではどうにもならない、既に決定づけられた自分の核から生じるものを必然と…