これは、わたしが虚偽から遠いからではなく、わたしの思想が、「自然」にちかい部分を斬りすてず歩んできたし、いまも歩んでいるからである。(過去についての自註)

わたしが若いころ吉本を読み始めて、こんな考え方にははじめて出会ったという驚きを感じたのは、知識を増やしていくということが人間にとって「自然過程」にすぎない、というところでした。自然過程という言葉は吉本がよく使う言葉ですが、ほっておいても自然にそうなっていく、という意味になります。人間にとっての自然過程のひとつとして知的な拡大というものがあるわけです。これは観念の「遠隔対象性」と関連付けることができます。つまり人間の観念にとってより遠方にある対象を求めるようになるのは自然な過程なんだということです。まずは身の回りのものから始まって、次第に遠くのものや事柄を知ろうとする。それはただの自然過程だという考え方です。身の回りのものを否定しながら、より遠方に真実を求めるようになるわけで、(親はくだらない)に始まって、(教師はくだらない)、となって、最後に書物のなかにだけ真実が書かれてあると感じるようになる。書物は観念ですから、観念にとってもっとも遠方にあるのは観念なので、そこが終着点になるわけです。この身近なものを否定し軽蔑しながら、とうとう書物、それもヘーゲルだのマルクスだのドストエフスキーだのランボーだのという100年に一人現れるかどうかというような天才の書物が気に入って、それを知識として吸収する。私自身もそんなふうに歩んでいて、それがちょっとイケてることのようにナルシスティックに感じてもいた、ちょうどそこのところで吉本の考え方が頭にごっちんと落下してきたわけです。私が俺ってスルドイよなとか、もしかして優秀なんじゃないかな?みたいにいい気になって感じていた知的な歩みは、実は誰でも多かれ少なかれ制約を取り払えば、ほっておいても歩んでいく自然の過程にすぎない。確かに考えてみると、それは疑えないと思えました。自然過程である、ということは(価値がある)ということではないわけです。価値をつけるとすれば、人間にとって自然過程であることを意識として組み入れて内省の対象となすことだと思います。すると価値ということからいうと、遠隔対象として、より遠方へと思考する観念の作用が否定したり足蹴にしたり忘れ去ったりした「身近なもの」は人間にとってなんなのか?その問題を観念として組み込むことが価値の問題となると吉本は考えます。こういう吉本の考え方で新たに考え直してみると、この社会の知の序列についてや、知識人と一般大衆というものについてや、日常と非日常というものについて、新たな見え方が生じてきました。それが私にとっての吉本の思想への入り口だったと思います。

おまけです
ジョルジュ・バタイユ「わが母」(生田耕作訳)より

「接吻して」僕に向かって母は言うのだった。「もうなにも考えないで。あたしの口のなかにお前の口をお入れ。いま、この瞬間幸せになるのです。あたしが堕落していることは、あたしが破滅していることは忘れなさい。あたしがその中に閉じこもっていることをすでにお前は感づいている、死と腐敗の世界にあたしはお前を入らせたいのです。お前がそれを好きになるのはわかっていました。いますぐ一緒に狂ってほしい。あたしの死の中にお前を引きずり込みたい。あたしがお前に恵む錯乱の短い一瞬は、世間の連中がその中でちぢこまっている愚鈍の世界にはたしてひけをとるものでしょうか。あたしは死を覚悟しています、(背水の陣をしきました。)お前の堕落はあたしの仕業でした。自分が持っているいちばん純粋な強烈なものをあたしはお前に与えたのです。つまり自分から衣をはぎとるものしか愛すまいとする気持ちを。こんどが、最後の衣です」
僕の眼の前で母は下着とズロースをぬぎ去った。裸でベッドに横たわった。