私は哀しき人々と題したが、何も私達三人が哀しき人々であると思つたのではない。人は誰でも幾許か、哀しき人々であるやうな気がしたのである。若し私の言ふことが間違つてゐると言ふのなら、その人は、君はどう言ふものになりたいかと訊ねられて何と答へるだらうか。(哀しき人々)

この哀しいという感覚は宿命にたいする感覚なんだとおもいます。自分で将来像を自由に決めているわけではない。各自の宿命というものが将来像に投影されているんだということです。

おまけです
有名な小林秀雄の文章 「様々なる意匠」より   

人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。