わたしたちの思想は、坐して大勢力の出現を夢みることはできないし、救世主をどこかに求めることはできない。不滅の思想的な根拠から、どのような勢力の消長にもくじけない思想としての拠点を構成する宿命を担つている。わたしたちは、何ものをも、勢力としては頼まないのであり、これを了解するものを受入れるが、これを拒絶するものを立去るにまかせ、それを追おうとも引きとめようともしないだけである。(過去についての自註)

こうした文章や、もう一つの「ゼミ・イメージ切り替え法」のほうの文章は学生の頃初めて吉本の本に出会った私に世界というものの考え方の基本を教えてくれたものです。とてもよく考え抜かれた世界についての考え方の基本。それは他の誰からも教えてもらえなかったものでした。親からも学校の先生からも他の著作家からもです。その考え方の基本との出会いが、それ以後の私の人生でもった価値ははかり知れないものでした。思想と出会うことができたということの価値は、膨大な書物を読んだかどうかとかいうことではなく、自分でその考え方を自分の人生にあてはめて真偽を検証しながら血肉にしていくことのできるということです。頭がいいとか悪いとかも関係ない。本を読んだとか読まないとかも関係ない。受け取った者が自分の武器にして生き抜くことができる普遍性があるということが思想の条件です。
この文章は田原先生も投稿していた吉本の単独編集誌(最初は谷川雁村上一郎と共同で編集していた)である「試行」というミニコミ誌のあり方によく象徴された吉本の考え方を述べています。「試行」は会費を払った会員と、あとはわずかな書店に置いてあるだけの小規模に発行された雑誌でした。それでも数千部は発行されていたでしょうから、ミニコミ誌としては大きな存在です。採算が取れて次号の予算ができればいいので、利益を得ようとはしていない雑誌です。要するにぜひ吉本や田原先生のような寄稿者の論文や文学作品を読みたいと望む人だけが読んでくれればいいというスタンスです。この単独編集誌に吉本は「言語にとって美とは何か」や「心的現象論」を36年くらいの間、毎号(発行は不定期)連載しつづけました。刊行の予定もなく、原稿料もないきつい原理的な仕事をえんえんと36年も続けるということの凄さというものを知ってください。
なぜこのような雑誌を発行するに至ったかといえば、吉本は安保闘争に参加してマスメディアから村八分の状態に追いやられたからだと思います。マスメディアから締め出されるほどにラジカルで、一般の読者に広汎に売れるとは思えないほどの原理的な論文を書き続け発表するにはどうしたらいいかという課題のなかで発想されたものだったと思います。「試行」はそれまでの雑誌の常識に対してまったく異なる編集方針を持っていました。第一に広告というものをしないわけです。また特集というような執筆者に対する原稿の依頼をしないわけです。さらに直接購読者という名の会員を経営的な支えにして、書店で手に取って買うような客を当てにしないわけです。
つまり寄稿者は自分が一番書きたいモチーフを掘り下げて執筆すればよい。またどうしても継続して読みたい人だけ会費を払って直接購読者になってくれればいいので、広告して読者を求めようとは考えない。優れた論文や作品があれば、その価値によって「試行」は維持されるので、もし経営が成り立たず廃刊ということになれば、それは誰のせいでもなく「試行」自身の中身がダメだったからだという考え方をしているわけです。このへんの事情は田原先生がよく知っていらっしゃるでしょうから聞いてください。
この「試行」の方針は、吉本の社会に対する徹底的な思想から生じています。つまり政治は共同の幻想を本質にしているし、芸術は個的な幻想を本質にしていると考えます。この本質を考えればその時代の幻想としての最高度のものを産出することが第一義の課題だということになります。たとえば政治といえば政府があって役人がいて財政があって外交があって軍事があってというような様々な事象があります。その日々刻々の動きに眼を取られて選挙がどうの増税がどうのという話題に終始するのが政治言論の通常です。しかしもっと深いところから共同体の問題を丸ごと包み込むような考察というものがありうる。そのレベルの考察に達しないならば、現実の権力闘争の場面に登場することはできても、この社会を根本的に変えていくような政治思想というものには登場できない。つまりこの社会を考えるときに、緊急の日々直面する問題というレベルの課題ももちろん重要なもので、消費税の増税原発の稼働も沖縄の問題も大衆の生活に即座に関わる重要な課題であるけれども、それとは別個に幻想の本質として共同体の根底からこの世界の根っこを押さえるという思想の課題があるということになります。この人間の作り出した社会を人間が根本から変えるということは可能かという夢が、大衆の意識の井戸の底にあるのならばその思想課題が見いだされれば本当の意味でのオルグというものがなされるだろうということになります。つまり本当に優れた思想は思想自体の力でざわざわと伝播していくということです。吉本がこの夢につながる課題に踏み込んで単独で「試行」を始めた頃に、日々刻々の政治問題が全部だと思っている活動家たちから日和見だとか昼寝をしているとか敗北主義だと罵られたわけです。
私は父親が議員でした。区会議員から都会議員になって国会議員に一回なって以後落選して50代の若さで亡くなったわけです。議員の家というものは4年ごとに選挙をする。だからばたばたとしたいろんな人が出入りする家です。私は政治というものにはまったく肌が合わない、文学だのマンガだの映画だのが好きな今でいうオタク系の、文化系の端っこに棲息する若者でしたが、政治というものは私にとってまずは日常的なものだったです。家に親父の顔の写った選挙ポスターが積まれていたり、運動員がドタバタ出入りして家なのか選挙本部なのかわからない家だったわけです。そんな中で高校の紛争があり、浪人して入った大学ではすでに内ゲバに入ったセクト同士の争いがあり、政治はまた自宅とは別の形で沸騰していました。私は政治というものが嫌いでしたが、嫌いだろうとなんだろうと空気のようにべっとりと私のまわりには政治をどう考えるんだという羽音のようなものが渦巻いていたわけです。そんななかで吉本の本に出会って、夢中で読みました。やっと息が深々と吸えるような、自分が自分の環境に対してやっと構えをもつことができて、ちくしょうさんざん振り回しやがってというような攻撃心も持てるようになった気がします。今までの人生の環境から圧迫されて、押し返して構えをとれないままで押しつぶされそうなそこのアナタ。人間の作った社会の問題は幻想を本質としているわけですから、親と子であれ、政治であれ、いじめであれ、恋愛であれ、すべては吉本のいうように緊急の現実的な課題と永遠の課題といえるような思想的な課題が混在しているのだと思います。緊急のことばかりに振り回されて神経を病むのが定番だけどもさ、もし永遠の課題のような深い本質的なことを語っている言葉に触れ、井戸の底まで引き込まれるような心的な体験のできる思想的な出会いがありうるなら、周囲の世界に対する幻想の構えができると思います。その出会いのために周囲からひきこもりとか呼ばれても吉本のように日和見とか言われてもいいわけですよ。そういう出会いは探し求めるならアンタにとってもきっとありうるということは信じてもいいと思いますけど。