2016-01-01から1年間の記事一覧

一行の詩もかけない時期に、雑多な書物を読んでは、独語をノートにかきつけた。それは、わたしの『初期ノート』の主要部を形作つている。もし、わたし以外の人物が、このノートを精読されるならば、現在のわたしの思想的原型は、すべて凝縮された形でこの中に籠められていることを知るはずである。緊張度は可成り高く、ノートのこの部分を公刊することについては、わたしは、水準についてすこしもひけ目やためらいを感じていない。(過去についての自註)

吉本が当時の詩の書き方を説明していました。まず白い紙に細い罫線を手書きで引きます。そして毎日毎日2時間ほどの時間、その紙の前に座っているわけです。それが吉本の詩の書き方です。言葉は出てくることもあるし、出てこないこともあります。一行の言葉…

ただ、おまえの愛惜する著作をあげろといわれれば、ためらいなくここに収録されたものを最上のものの一つとして自薦するだろう。すくなくとも、わたしの「書く」ものに関心をいだいている少数のひとびとは、ここに収録された断簡のもつ意味を愛惜することができるはずである。なぜならば、わたし自身がかけ値なしにそれを愛惜しているからである。(過去についての自註)

ここまできっぱりと自分の初期のノートの文章についていえるということは大したもんだと思います。とても自分にはいえないなと思います。どうですかあなたは。ではよいお年を。 おまけ「だが動くものとしての現実はあくまでも詩的なものだ。また逆に詩的なも…

○科学は力である。それは大自然を抽出して来て人間のいとなむ社会生活に適合調和せしめやうとする力である 真実を行く知性も、透明な理性も、妙味のある悟性も、それとは相背馳せざるを得ない力である 宗教が人間性を挙げて大自然のふところに還らうとする点に於て、それは全く反対の方向に動いて行く力である (〔科学者への道〕)

この科学と宗教ともうひとつあげれば文学とが、吉本の深く探求したもので、そして探求すればするほど別々の方向に自分を連れていくことを感じるのでしょう。そしてそれらを統合する方法を構想していくようになります。シモーヌ・ヴェイユについての吉本の考…

○アインスタインの相対性原理はアインスタインの人間性をはなれて存在し得るのである 彼がユダヤ主義的な自由主義を抱いてゐても、アメリカ政府の先棒をかついで対日経済絶交を叫んでも、相対性原理は存在するのである 即ち相対性原理はアインスタイン以外の人によつて同様に称へられてもよい性質のものである 科学はかかるものである (〔科学者への道〕)

昔はアインスタインと言ったんですね。アインシュタインを例に、科学の発見者を越えた普遍性のことを言っています。吉本が自分の思想の先に見ていたものも、こうした普遍性だと思います。吉本という探求者、発見者は万人の思想の方法のなかに普遍性として沁…

抑圧に加へるに抑圧。僕の脳細胞が破壊すれば、僕はそれを勝利と呼ばざるを得ない。(原理の照明)

これはそんなに解説することがないですね。限界まで考え抜こうということです。限界を極端に想定すれば脳細胞が壊れるまで、ということで、そこまでやれば勝利といったっていいんだという若者らしいことが述べられています。実際はよく考える人より、考えな…

この精神の単調を練りかためることにより僕は何を獲得するか。(原理の照明)

吉本が獲得したのは原理だと思います。それは精神の疾患ぎりぎりの苦しみを介して到達したもので、その耐え方はヴェイユに通じるものがある気がします。おまけ ありません。

美学から歴史を拒否することは長い間僕の主題であつた。僕には存在の根底にある伝習といふものは現在的な意味のうちに消失すべきものと思はれた。若し望むならば、すべて歴史的なものは現在的な論理と解析のうちに尽すことが出来ると信じられた。僕は論理の力を信じてゐたし、論理の持つ普遍性よりも論理の含む浸透性を、好んだ。(〈老人と少女のゐる説話〉Ⅵ)

これは分かりにくい文章ですね。美学から歴史を拒否するって。そもそも美学って何?すべて歴史的なものは現在的な論理と解析のうちに尽くすことができる、というのもよく分からない。要するに現在の文化の先端にある思想や論理で、歴史を論理づけるべきだと…

夕ぐれがくると僕は理性のかげにかくれてゐる情感を放した。情感はひそかに理性の手をはなれて自らの影を拡大するやうだ。僕は鋳型をうちこはして融解するようにすべての規律をも放すのだ。《一九五○・四・三○》(〈夕ぐれと夜との言葉〉)

大庭みなことの対談で、吉本は否定に否定を繰り返した帰り道で他者を許すことができなくてはならないというようなことを言っています。大庭みなこが、その言葉は胸に刺さりますね、と言っていたように私のこころにも刺さります。夕暮れになると吉本は情感を…

わたしは、しかたなしに孤独な希望を刻みつけなければならぬ。(第二詩集の序詞(草案))

しかたなしにということは、本当は共同でもつ希望があればいいということです。吉本がこの文章を書いた敗戦後7年目という時期の共同の希望、日本人としての希望といえばアメリカに追従して戦後の復興を成し遂げて豊かな生活をしようということだったでしょ…

ぼくは偶然に出遭ふことがらのなかに宿命の影をみつけ出す。(第二詩集の序詞(草案))

偶然が必然なんだという矛盾を語っています。勝新太郎が「偶然完全」という言葉をよく言っていたらしいです。勝が監督をやるときに台本通りにやらせない。覚えてきた台本なんて死んだものだと言って。その場で出てきた言葉とか、その場で思いついて筋書を編…

人類は未だ若い。到るところに神々の古ぼけた顔がのぞいてゐる。(エリアンの感想の断片)

宗教性を払いのけたように見せているイデオロギー集団のなかにも理念が宗教的であるものが至るところにあるということを言っているんだと思います。吉本は現在の段階では、宗教だけでなくイデオロギーにも宗教性があって、どちらも普遍的な真理には到達しえ…

批評はつねに内と外からなされ得る。内からなされるときは沈黙を以てするより外ない。(エリアンの感想の断片)

沈黙をもってする、というのは書き言葉になる以前の、生活のなかに存在する感情とか体験とか感覚とか痛みとか喜びとかそういうものを通過した言葉をもってする、という意味なんだと思います。インテリぶるなということです。それは普遍的なものから遠ざかる…

深い静寂について、又茫漠として意識の遠くにある海について、あきらかに今沈まうとしてゐる人類の寂しい夕ぐれについて、あの不気味な地平線の色について、誰が僕のとほりに考へるか。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

こういう西欧の翻訳された文学に影響された比喩を使って書くことは初期ノートの特色ですが、それは若いからだと思います。「今沈もうとしている人類の寂しい夕ぐれ」なんて照れくさい比喩はだんだん吉本は使わなくなります。そういう比喩を自分に許すときに…

風景は僕の精神のとほりに歪んでゐる。虚無は霧のやうに拡がつて、樹木は棒杭のやうに林立してゐる。そのなかに人々が嗤(わら)ひのやうに移動してゐた。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

イキっとんなあ。 おまけありません。

〈思考の体操の基本的な型について〉 第二型 抽象されたものを更に抽象化する演習 第三型 感情を論理化する演習 論理を感情に再現する演習(〈思考の体操の基本的な型について〉)

初期ノートのこの部分は以前にも解説したと思いますが、若い吉本が論理というものにいかに凝っていたかがわかる部分です。スポーツに凝った人がゲームだけではなく、素振りをしたり握力を鍛えたりしようとするように、吉本は論理的に現実の問題を考えるだけ…

一の体制のなかにある人間はあたかも何ものかのうへに乗つてゐる心理を伴ふもので、これが体制といふものの心理的な基礎である。疎外された階級は動揺する心理をさけることが出来ないのであつて、これは少年たちの世界においてすら存在するものである。(〈思考の体操の基本的な型について〉)

「知識」の同時代の範囲を超えることを目指して、自由に感じ考える。それを失うと人類が長い間疑問なくおさまっていた共同体への受動性のなかに退行する。退行は何者かのうへに乗っている安心感といってもいいし、自由を求めることは動揺することといっても…

現在僕の周囲を覆つてゐる形ない暗黒が、若し僕の自由を覆つてゐるものであるとするならば、それは歴史的な現実が、形而上学的乃至は心理学的な形象を以て現はれてゐるものであると考へざるを得ない。僕がそれを脱出することは、現実を変革する実践によつて行はれるであらうが、それは同時に僕の生理を変革することに同型である。(原理の照明)

「形ない暗黒」とか、そういう文学的な表現にとらわれないで考えれば、自分の実生活、家族とか学校とか会社とか地域とかの自分が生きている小さな生活領域に起こっていることを、歴史的現実という普遍的なものに結びつけて吉本は考えているということです。…

真空の時期といふものが生涯のうちにあるとするなら、それは僕にとつて現在である。(原理の照明)

真空の時期というのは、現実に向かうことができずに観念のなかに閉じこもっている時期ということなんじゃないでしょうか。「ひきこもり」についての後年の吉本の考えに沿っていえば、それは吉本の「ひきこもり」の時期だと思います。吉本は「ひきこもり」を…

〈わしの話は誰も聴くものがゐない。畏ろしさを思ふのかも知れない。〉 (〈老人と少女のゐた説話〉の構想Ⅰ)

これは吉本が若いころに書いた散文詩「エリアンの手記と詩」の構想を練っている時の文章なんだと思いますこの詩は主人公のエリアンに吉本自身が仮託された物語になっています。どこの国とも知れない国籍不明の舞台を設定した、吉本の数少ないフィクションで…

僕は夕ぐれと共にひとつの歌を沈める。(〈夕ぐれと夜の言葉〉)

よくわかりませんが、吉本がいっている「歌」というのは、吉本の心になかだけに秘められた「肯定」のイメージなんだと思います。それは現実のなかで歌われることができないんでしょう。しかし「歌」がないわけではない。それは「25時」のなかで、誰に伝わる…

悲しい僕らの国の現実。或る者はアメリカ式の感覚攪拌の音楽によつて踊り、或る者はソヴイエト・ロシヤ式群舞踊によつて踊つてゐる。しかし僕の魂は如何なる形式でも舞踏しなくなつてゐる。僕の関心は正しく悲劇的と呼ぶべきものであらうか、この国ではいつも悲惨な運命を負はされざるを得ないものだ。(中世との共在)

音楽というのは音楽そのものを指していると同時に、比喩としてアメリカのイデオロギー、ソ連のイデオロギーのことを指していると思います。アメリカから民主主義として押し付けられるものも、ソ連から社会主義として押し付けられるものにも僕の魂は踊れない…

もの判りの悪い僕の魂のために、ひそかに思考の道をつけてやること。(〈夕ぐれと夜の言葉〉)

これは解説にしようがないですね。もの判りが悪いというのは、どんな音楽にも踊れないという比喩にあるように否定に囚われた魂のことでしょう。それをなんとかするには思考すしかない。わかるということが否定せざるをえない現実を見渡すことのできる唯一の…

人間は有史以来、触れないで済ませた盲点を有つてゐる。如何なる天才も逃してきた盲点がある。僕の好奇心はこれを解かうとするが解き得たためしがない。だが何日のまにかそれを体得してゐると言ふ具合だ。しまつたと思ふが、既に体得されたものは解くことは容易だが、藻抜けの殻のやうに説明に終る。決して好奇心を動かすことはない。(原理の照明)

有史以来人類が触れないで済ませた盲点とは何でしょう。書いてないのでわからないわけですが、その盲点は言葉で解明しようとしてもできないのに、いつのまにか体得している。なんとなくわかったような感じがするということでしょう。このなぞなぞのようなも…

我々は虚無において神への上昇も現実への下降も許されない。(〈虚無について〉)

吉本にとっての、というか日本人にとっての戦時中の神は天皇だったわけですが、その天皇へ戦後に再び上昇する、つまり信仰することはできなかったわけです。現実に下降しようとしても、その現実に吉本が拒絶するもの、否定するものがうごめいていれば、現実…

人類が宗教を否定してゆく過程は、とりもなほさず人類が被支配者たる自らの位置を否定してゆく過程である。同時に、人間精神が宗教性から離脱してゆく過程は、とりもなほさず人間精神の全き自由と独立への過程に外ならない。斯くて僕たちは内的規定と外的規定とを共に神及び神権政治の排滅の方向につきやぶりながらゆかねばならない。(エリアンの感想の断片)

宗教から法が生まれ、法から国家が生まれるというのがマルクスの考察だと思います。そういう意味では宗教が否定され、より現実社会に接した法や国家が成立する過程は人類が主体性を獲得していく過程だといえると思います。しかしそれだけで事足れりとするな…

人類は未だ若い。到るところに神々の古ぼけた顔がのぞいてゐる。(エリアンの感想の断片)

吉本は宗教も知やイデオロギーも信仰のなかに含めていると思います。つまりその両方があるということが、どちらもの真実性に不十分さがあることを意味しているということだと思います。真実をもとめてあらゆる神々の古ぼけた顔を破壊して、そのあとにきっと…

ひとは女性たちが建築の底を歩むのを視たことがあるだらうか。その如何にも不調和な感じを覚えてゐるだらうか。女性は視覚的実在であるのに反し、近代の建築群が抽象的実在であるためである。又僕は、濠と丸の内街の中間にある路を馬車が通るのを視たことがあつたが、それは如何にも不調和なものに感ぜられた。決して馬車が前時代的であるからではなく、馬が視覚的実在であるからだと僕には思はれた。(〈建築についてのノート〉)

初期ノートの別の個所に「僕は眼を持たない。眼なくして可能な芸術。それは批評だ」と書いてあります。批評というものは論理性であり、抽象性であり、観念です。目で見るとか手で触れるという五感覚でとらえた対象を観念の内部で抽象化していくことは、抽象…

建築の間を歩むとき、精神は均衡と垂直性とを恢復する。(〈建築についてのノート〉)

山本哲士という学者がインタビューした吉本の「思想の機軸とわが軌跡」「思想を読む 世界を読む」という分厚い本を読んでみました。山本哲士がしきりに述べていることがあって、それは吉本の思想を理解するということより、吉本とともにこの世界を探求するこ…

或日私の家を訪れた女の人は、随分お喋りであつた。ほゝけたやうな私の顔を見て、何かしきりにお世辞を言つた。もう四十年以上もこの世に生活してゐて、私を軽んじたやうな眼付きをして眠つたやうな美言を吐いた人よ。私は何も言はないけれど、私を心のどこかで馬鹿にしてゐる人が、この世に絶えない間は、私は生甲斐があると思つた。(無方針、○女の人)

この文章は吉本が米沢工業高校時代に友人たちと作った同人雑誌に載せたものだそうで、1943年に書いたものだというからまだ19歳くらいでしょう。吉本が紛失したその同人誌を川上春雄という人が根気よく探し出して「初期ノート」を編集したということで…

「彼奴は利己主義だ」などと他人を非難する声があつたとする。この場合本当の利己主義は非難する側にあることを私は殆ど請合つてもよい。よくそんな非難をするくせのある人は、勤労奉仕をする前に、坐禅でも組むべきだと私は思つてゐる。(無方針、○利己主義)

これも19歳の若造の吉本の文章ですね。勤労奉仕という言葉に戦争中の風俗があらわれています。人を利己主義でもいいし、不道徳でもいいし、卑怯者でもいいけど、責める人はあんたのほうが利己主義なんじゃないの、ということを言っています。そういう人は…