2012-01-01から1年間の記事一覧

我々は生存せんがために生存そのものを持つてゐる。これ以外のあらゆる生存の意味附けは観念にすぎない。観念なるものは一切虚偽である。(断想Ⅴ)

これは吉本の根底にある考え方のひとつです。ひらたくいえば、人はなんのために生きるのかというような問いかけに対する反発です。ひとはなんのために生きるのか、という問いかけ以前にすでに生きているわけです。なんのために生きるかというような言葉によ…

だが我々は生存そのものを、生存そのもののうちに忘却することが出来る。これが救済のすべてである。(断想Ⅴ)

これは生きているということを特に意識しないで生きているということじゃないでしょうか。ということはいずれは死ぬということも意識しないで生きているということです。わたしたちはなんでいずれは死ぬのに、そのことに恐れおののかずにのほほんと生きてい…

直覚といふものは持続するためには速度がいるので、論理はそのために強さがいるだけである。(断想Ⅲ)

論理というのは直覚と直覚をつないでいくものだと吉本は考えていたとおもいます。直覚というのは「ひらめき です。「直覚の持続には速度がいる」というのは、精神には自分の全経験というものを凝縮したり象徴したり暗示したりする言葉やイメージを、一瞬のう…

何故に僕は自分といふものを救助することが出来ないかと言へば、精神は絶えず救助の方向に反撥するからである。(断想Ⅲ)

自分を救助するというのは、自分を安心させるっていうことだと考えると、自分を安心させるためにはとりあえず何かを信じるってことだと思うんです。何かを信じてしまえば価値の秩序ってものが心に生まれましょう。信じているものが上にあって、信じられない…

方法なき芸術は発展なき芸術である。(〈方法について〉)

うまく説明できるかわかんないんですが、たとえば戦後詩ってものがあるでしょ。たとえば「荒地派」っていう詩の集団があって吉本もそこに属していたわけです。荒地派の総帥っていうか、代表的な詩人はまあ鮎川信夫だってことになります。鮎川と吉本は三浦和…

方法は純化せられたる選択である。(〈方法について〉)

純化されたというのは自分のなかで抽象化されたということじゃないかと思います。選択というのは言葉の選択であれ対象の選択であれ選択の連続として表現は行われます。なぜここでこの言葉を使うのか、この場面を描くのはなぜか、なぜあの場面ではないのか。…

若しも僕が社会を構成してゐる思惟の錯綜を再現することを願ふならば、社会は金網の積みあげられた山のやうに視えるだらう。到るところで身をからまれる者が在るかと思へば、或る者は何くはぬ顔をして網の目の端を引張つてゐる。(〈夕ぐれと夜との言葉〉)

これはあまり解説の必要がないと思います。社会というものを内面として視て、錯綜する思考の山のように見たらどうなるかということを言っているわけです。これに時間軸を加えれば、内面としての歴史ということになるわけです。社会を内面として視れば支配的…

異常な個性がたどる異常な運命――それは人性的な原則に外ならない。誰もそれをどうすることも出来ないものだ。(〈少年と少女へのノート〉)

これは吉本自身のことを言っているんじゃないかと思います。吉本という人はふつうの生活人の生活を目指して暮らしていた人です。また両親も生育した下町の環境もふつうのものであり、その戦中戦後の学歴、就職歴、組合運動の履歴なども当時の若者としてあり…

僕は僕の歩みを決定する。だが他人にとつて僕の歩みだけが僕だ。これは魔法のやうに僕を怖ろしくさせる。(序章)

これはですね、人は何かをしようという動機をもって行動するけれど、思うようにはいかないわけで、その行動の結果は動機とはかけ離れたもにになることが往々にしてあるということだと思います。それは現実というものがあるからで、現実と格闘し現実によって…

終に開花しないかも知れない僕の青春。(序章)

大丈夫。青春が開花したかどうかは知りませんが、吉本のなそうとした思想的な動機は大輪の花となって開花し、さらに死後も開かせるものがいれば開くであろうさらに大輪の花の蕾もたくさん残っている。吉本のような生涯があるということがどれだけ勇気を与え…

覚醒といふのは積極的な消費で、それは思考の体操の如きものである。(方法的制覇)

こういう文章は分かりにくいですが、若き日の吉本が化学者としての思考の方法で文化系の文学や思想の問題を扱おうとしている気がします。吉本が色紙を求められたら書く大好きな言葉は宮澤賢治の「ほんとうの考えと嘘のの考えを分けることができたら、その実…

危機とは僕にとつて且てすぎてきたところのものだ。僕は死のうちに生の仮面をつけてゐるだけだから。僕はもう誰のためにも笑はない。みんな喪してきた。(〈夕ぐれと夜との言葉〉)

まあそう言わずにいっぱい呑もうよ吉本くん。きみは本当はオレより年長で、しかももう亡くなっているんだけど、ここでの君はオレより30年くらい若いんだ。君がオレより賢くてすげえ男だということはよく知っている。でもさ、もうおしまいみたいなことを言…

僕は冷酷な孤独を知つた。それについて今は何事も語らうとは思はない。その時から僕は笑ひを失つて理論と思考とに没入した。僕は均衡を得ようとした。しかも充たされた均衡を。敗残のほうへ傾いてゆく僕の精神は何と留めるにつらいものであつたらう。僕は急に老いたと思つた。青春の意味は僕から跡形もなく四散したと言ふべきだつたらう。(原理の照明)

これは「母型論」とも関連することですが、にんげんが育てられる主として母親との関係というものと、その育てられた者の共同体に対する感覚ということには対応性が考えられるというのが吉本の思想です。つまりどう育ったかということと、そいつが社会や集団…

寂しさと呼ばれてゐる状態は、やはりひとつの止つた状態であつて、僕は速度によつてそれを消すことがいちばん易しい方法であると思ふ。(断想Ⅲ)

無意識のなかの受け身の感受性が共同体の強いてくる秩序の感性に合致している状態を「明るさ」とみなすことができます。明るく健康的という感性にはそうした無意識と共同体との合致がある。しかしその合致に疑いが生じ、あるいは容赦なく切断されたらどうな…

絶望はその冷酷度を増した。一九四八年から一九五〇年初頭におけるニポニカ。アルダンとソルベエジユの対立の激化。アルダンに強制された経済政策。エリアンの心は救ひがたいまでに虚無的になつてゐる。(序章)

ニポニカというのは日本のこと、アルダンとソルベエジユというのはアメリカとソ連。エリアンというのは吉本が書いた「エリアンの手記と詩」という長編散文詩の主人公で吉本自身を仮託したものです。初期ノートのこの部分は「エリアンの手記と詩」のモチーフ…

僕は一九四五年までの大戦争に反戦的であつたと自称する人たちを信じない。彼らは傍観した。真実の名の下に。僕らは己れを苦しめた。虚偽に惑はされて。何れが賢者であるかは自明かも知れぬ。だが僕はそう明な傍観者を好まない。(風の章)

吉本は戦後、戦争責任論を提起して論壇にデビューしました。その戦争責任論を詳しく述べる余裕はありませんが、戦争中に反戦的であったという人を信じないと言っています。戦争中に公的に戦争否定を述べたり行動することはありえなかった。ただ心のなかで戦…

余剰の精神といふものがあつて、それはこの世の全価値よりも自分の価値がほんの少し巨きいといふ風にも説明されるが、逆にこの世の価値物らしい価値物がすべて他の精神に占取された後に、自らの精神が取得する悲しみや瞋怒や若干の愁ひをも含んだ精神的余剰物と考へる方がより適切であらう。(方法的制覇)

私たちは自分で考えているようにみえても、テレビや本などで他人が言っていることを基に考えているにすぎないことが多いでしょう。特に直接は知らない事柄で知識や情報によって知るしかない社会的なことや政治的な事柄になると、アリエッティじゃないけど、…

忘れるといふのは美しい獲取であつて、若しそれが精神にとつて無かつたとしたならば、人間は絶えず消費を感じてゐなくてはならない筈だ。(方法的制覇)

初期ノートを書いている若い吉本にとって忘却は美しい獲取と感じられるかもしれないけど、老いぼれてきて物忘れがひどくなってくるとあんまり美しいとは思えないですね。とはいえ脳の老化による物忘れと、無意識に送り込んでいく忘却には違いがあるのでしょ…

僕は情意のなかに混沌せしめられたとき、建築の間を歩むことを好んだ。単純な直線と曲線、影と量とが、僕を限定してゆくとき、僕の精神に均衡と比例とが蘇へるのを感ずるのであつた。(〈建築についてのノート〉)

人間関係で心が乱れるようなとき、吉本はビル街などを歩くと落ち着くということですね。こういう好みをもっと緊張度を高めた表現で書いたものが「固有時との対話」という詩のなかにあります。ちょっと引用してみましょう。 建築は風が立ったとき動揺するよう…

剰余価値は、高度資本制の複雑な機構下においては、最早余り意味がないのではあるまいか。むしろ注目すべきものは固定資本量の生態(膨張してゆく)である。(エリアンの感想の断片)

これはちょっとお手上げですね。よくわかりません。剰余価値というのはマルクス経済学の概念で要するに労働者が自分の労働の価値として給料をもらうわけだけど、その給料として払われる価値以上の価値を労働によって作り出す、その余った分の価値だから剰余…

僕らは正しいことをやる奴が嫌ひだ。正しいことはしばしば狡猾に巧まれた貪慾である。倫理が他人がそれに従属すべきもので自らは関知せぬと思つてゐるものは、この正義の士のうちにある。(〈少年と少女へのノート〉)

ここでいう正しいこととは倫理的な意味の「正しいこと」を指していると思います。誰も反対できないような大義名分、あるいは正義、そういうものを大上段に振りかざしてものを言う連中が嫌いだといっています。それはなぜかというと、ひらたくいえば言ってい…

人間は経験といふものなしに宿命を深化することは出来ない。それ故経験とは屡々(しばしば)似非秀才によつて軽蔑されるあれよりも、遥かに複雑な、重たい意味を持つものだ。(原理の照明)

吉本の考えでは胎乳児期に無意識の核の領域が作られます。乳児期を脱し幼児期になると、無意識が意識の領域にむかって拡がっていき、同時に無意識の中間層がつくられます。そして児童期に至って、胎乳児期に形成されたものが現実世界と衝突させられることに…

一つの決定的な宿命といふものが、如何にして一つの可能性をあらはすかと言へば、それが多様な構造によつて支へられてゐるからである。この構造の多様性といふものは僕らの否定といふもののもたらす効果とも言ふべきものであつて、僕らが離脱しようとする意志によつて生成せしめてゐる。(断想Ⅱ)

言葉使いが難しくて分かりにくいですね。そこで宿命という言葉を必然性という言葉に置き換えてみます。ある個人の生き方のなかに他にどんな道も辿ることができなかったという必然の道筋があるとすると、その必然の道筋というものはその人の内面と外部の現実…

精神の集中の周囲には必ずひとつの真空がある。我々はこの真空を個性と考へる。そこで個性といふのは、よく考へられるように個人が所有する特性ではなくて、個人の所有する場である。(〈虚無について〉)

吉本が「母型論」を書くことで推し進めたい思想の夢は、吉本の言葉でいえば人類の歴史をお猿さんの段階からぶっとおすことです。ぶっとおすというのは一貫した理解を人類史の始まりから現在にまで貫きたいということです。若き日に吉本が直感した個の精神が…

批評における判断力の表象は言ふまでもなく批評家の宿命である。この言ひかたが唐突に感じられない者にとつては、主観的客観的といふ分類は意味をなさない。批評家は常に主体的であるのみである。(〈批評の原則についての註〉)

言葉使いが難しいですが、批評家が批評をするときにその判断力は批評家自身の宿命によて行使されると言っていると思います。また批評家は批評をするときに、対象である作家の宿命を作品のなかから取り出す。それが批評だということになります。これは小林秀…

批評における判断力はまた、肯定または否定としてあらはれるとは限らない。現実の構造がそうであるように、感性の構造は元来倫理的なものではない。(〈批評の原則についての註〉)

倫理、つまり何が正しくて何が正しくないとか、これは善でこれは悪とか、そういう区分は文学という立場のなかでは、そして文学である批評のなかで溶けていくというか不分明になっていく。それはなぜか。それはたぶん倫理というものが宿命という概念を超える…

思想は経験に勝つことはない。経験しただけが思想になるのだから。思想が経験に勝つやうに見えることはある。それは見えるだけだ。これは空想と呼ぶべきだ。(〈少年と少女へのノート〉)

「経験しただけが思想になる というのは吉本の深部での確信だったと思います。この思想というのは個人が抱くその人の糧であり井戸であり牢獄であるようなその人固有のものを指しています。たとえば芥川龍之介のような文学者に対しては、芥川の下町のガキとし…

ときどきこの世で住むのはいやだと痛切に泣きさけぶことがある。(断想Ⅶ)

こころのなかでこの世に住むのはいやだ、死んでしまいたいと痛切になきさけぶというのが本当なら、エロスとしてにんげんをみればエロスの発現が過酷に弾圧されているからだとみなせるように思います。この弾圧は多層にわたっていて、単に社会的な弾圧に還元…

芸術は閉ぢられてはならない。何故ならそれは滅亡であるから。(〈方法について〉)

日本の戦争期にもたくさん優れた芸術家はいたわけです。優れた知識人もいた。その人たちがすべて戦争翼賛に吸収されていった。芸術的才能も国際的な知識も国家の推し進める戦争に腹の底から掬い取られていった。それを吉本は嫌というほど知っているわけです…

限界なきところにあつて織る夢。(原理の照明)

もう俺だって59歳だから限界ありますよ。俺のような還暦のあたりの人を「アラカン」っていうんだそうだ。「アラフォー」のバリエーションとして。アラカンかあ。嵐勘十郎みたいって、そんな名前が浮かぶあたりがすでに「アラカン」。ま、いいか。吉本の晩年…