又子供達の夢が実際にその手でもつて行はれた場合を考えて見ます 残念なことには子供達には経験とか知識とか言ふものがどうしても不足なのです そして子供達はその夢を空しく放棄してしまふより他に仕方がないのです これで子供達の夢の限界が或る一定のところより以上に発達し得ないことは明らかであらうと思ひます 今私は童話と言ふものがこの子供達の夢を充分に拡げるに役立つものであると思ふのです(宮沢賢治童話論 一、序論)

現在の社会で倫理として通用しているヒューマニズムのような倫理の形がどうしても白々しく感じられるという段階が到来していると感じられます。しかしそれに代わる新しい倫理というものが視えてこない。その新しい倫理のあり方というのは、吉本がずっと考え続けていたことです。それは親鸞論における「正定聚の位」という言い方で指していたものと同じです。「新しい倫理のあり方」に対する吉本の考察は深く、いわゆる良識的な人々をドン引きさせるようなラジカルさも含んでいました。その考察の姿がおぼろげに姿を見せるたびに、吉本は敬遠され、嫌われ、あるいは唖然とされたり、神棚に祭って忘れ去られようとしてきたんだと思います。「母型論」もまた「新しい倫理のあり方」の模索の基礎作業として書かれているとみることもできます。

おまけです
これは吉本の長女で漫画家の「ハルノ宵子」さんが「フランシス子へ」という吉本の遺作に後書きとして書いた「鍵のない玄関」という文章の一部です。吉本の次女である「よしもとばなな」はもちろん有名ですが、「ハルノ宵子」の文章も父の血をひいた素晴らしいものがあります。

「鍵のない玄関」より(「フランシス子へ」吉本隆明 あとがき)    ハルノ宵子
さて―――2012年10月、父に続いて母まで亡くした私の〝番人〟としての役割は終わった。
私はこの家の物に、何ひとつとして執着もなければ、父の仕事の遺志を守ろうという殊勝な使命感もない。父母からもらったものなら、すべて心の中だけにある。今はただ、家猫・外猫の世話係としてここにいるだけだ。
吉本ファン諸氏よ! 私はあなた方となんの関係もないのだ。
私は訪れる方々に、これからも父の生前と変わらずに対応していこうという気持ちと、父の蔵書も資料も原稿もろともすべて、ブルドーザーでぶっ潰して更地にしてやりたいという、〝黒い誘惑〟との間を振り子のように揺れている。