2017-01-01から1年間の記事一覧

依田圭一郎さんの御逝去を悼み、お知らせいたします。

突然の訃報で驚かれることと存じますが、平成29年6月18日に、依田圭一郎さんが御逝去されました。慎んでお知らせいたします。依田さんが亡くなられた原因は、心臓の動脈瘤です。奥様の都華子さんからうかがいました。 亡くなられるまでの経過は次のようでし…

くものいと くものいとに 息を吹きかけながら 明日の日の 小さな声を にはとこの ざやめきに 真実きいた 軒端のくものいと くもは居ないよ 息ふきかけて 夕焼 小焼(くものいと)

この詩は吉本が東京府立化学工業学校に在学中に友人と作っていた「和楽路」という同人誌に発表されたそうです。この詩の載った「和楽路」最終号は、1941年11月に発刊されたそうで、吉本は1924年11月生まれだから16歳の時に書いた詩か、あるい…

うら盆 うら盆で 灯籠流せ 灯籠流せ 舟の下で 溺れた子が 抱いて帰る(うら盆)

これも「くものいと」の詩と同じ「和楽路」の最終号、卒業記念号に載った詩だそうです。この詩も完成度が高いと思いますね。スタイルとしては「太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ」の三好達治みたいな日本の自然詩人を模倣しているといえるでしょうが、舟…

若し社会なるものが今日、日本の文学者における如く、自らに食を与へる一つの機能であるにすぎないならば、僕は斯かる社会なるものを必要としないだらう。併しながら、社会なるものは僕の精神にとつて明瞭に一つの場処を占めてゐる。(原理の照明)

この文章はこの下の「ゼミ・イメージ切り替え法」の文章と続いています。それを合わせ読むとわかりますが、吉本は歴史的現実、つまり歴史があってその積み重なりの上に存在している現在のこの社会、そのありようを内面の問題にしようとしていると思います。…

僕は恐らく、歴史的現実の諸相を、喜怒哀楽に翻訳するところの機能を精神のうちに持つてゐるのだ。名付けようもない苦悩が、暗い陰のやうに、僕以外の原因からやつてくると、僕はそれに対し、何人も僕に教へることのなかつた種類の、一つの対決を用意せざるを得ないのだ。正しく斯かる種類の対決を且て如何なる思想かも人間に対して残してはゐなかつた。(原理の照明)

歴史的な現実が引き起こした事件、たとえばサリン事件を自分自身の内面の情緒のありように翻訳するということを言っています。サリン事件は吉本に関わらないところで実行され、吉本も事件に巻き込まれたわけではない、しかしその事件は吉本の情緒に暗い陰を…

放浪と規律。僕はこの両極に精神を迷はせてゐる。刻々と僕が人生における一つの岐路に近づいてゐるといふひとつの予感が、僕を一層不安の方へつれてゆく。僕は放棄すべきなのだ、一切の由因を。この国の芸術家達が一様に悩み抜いた分裂が僕の心をも又占めはじめてゐる。恐らくこれは僕の負ふべき僕のゐる精神と社会との風土が負ふべきものなのだらう。だが僕はそれを逃れることは出来ない。人間は環境を必然として受入れることの外に、何もなし得ないから。この国は悪魔の国だ。しかも意地の悪い、卑小な悪魔のゐる国なのだ。(〈夕ぐれと夜の言葉〉

なにを言っているのかよくわかりません。昔この文章を読んだとき、感銘を受けたのは自分の悩みを自分の責任ではなく自分のいる風土の責任だと考えているところでした。すべてを自分の肩に背負わせてはならない、ということですね。自分だけが背負うと風土、…

孤独は凍結するものだ。僕の資性はいま何も語らなくなつてゐる。(〈夕ぐれと夜との言葉〉)

宗教というものは私たちには遠いものですが、しかし世界はまだまだ宗教が大きな力をもっている段階にあります。また宗教にはさまざまなものがありますが、どこかに宗教が人間をとらえる普遍性があるはずです。そのひとつは臨死体験の普遍性なのだと思います…

春の嵐だ。窓の内側で何が愉しかつたらう。窓の外で風と雨がつのつてゐる。僕は待たうとした。期待のうちにかけられた運命は素速い速度でふるえてゐる。そして僕は何を不安のなかから追出すことが出来たらうか。僕の望んでゐた通り精神は飛翔をやめてしまつた。僕はじつとしてゐる。(夕ぐれと夜との独白)

こういう文章はなにかの模倣なんだと思いますが、なんの模倣だかわかりません。リルケとかかな。国籍不明ですよねイメージが。ヨーロッパの古い町っぽいところで若者が窓の内側で物思いに沈んでいるみたいな。しかし吉本は佃島出身のこてこての下町っ子。だ…

風は柔らかになつた。僕の心は険しいままくるまれてゐる。柔らかいもので。(夕ぐれと夜との独白)

ほんとうに晩年のよろよろした爺さんになった吉本の写真で見たんですが、吉本の自宅の書斎で山のような書物に囲まれてお爺さんの吉本がいるんですが、目の前の壁に大きな綺麗な外人女性のポスターが飾られていたんですよ。たぶん吉本が惹きつけられた写真な…

自覚における自己写像は任意的である。つまり任意的なものだけが自己形成に関与する。人間の自由とは原理的に(つまり抽象的に)語られる限り、この自己写像の任意性といふことに帰着する。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは昔読んでよく分からなかった箇所ですが、今読んでも分からないですね。自己写像っていう概念が分からないわけですよ。人間はたえず心も体も動いていますよね。絶え間なく何らかの活動状態にあるわけで、そのすべてを把握することはできません。絶え間…

現実は人為的に(意識的に)、又は必然的に(無意識的に)歪められてゐる。(形而上学ニツイテノNOTE)

これはマルクス主義的な考えから出ている言葉のようですね。現実の歪みというのは資本主義社会の歪みというようなものを指しているのだと思います。吉本が優秀だなと思うのは、制度の歪みを革命で改めようというだけでなく、現実の無意識の歪みというものを…

戦後世代の無軌道を批難して、もつともらしい渋面をつくつてゐる大人たち。君たちはあの無軌道が、仮令へ無意識な行為であつても、一つの自衛の本能(精神の破局に対する)から発してゐることを、よもや知らぬふりをすることは出来まい。何故、自衛せねばならないか。それは全ての思考と行為とが、ネガテイヴの内で行はれてゐるからだ。ポジテイヴを放棄したものにとつてすべてはネガテイヴだ。(風の章)

戦争に負けるまでは、日本人は軍国主義のもたらす情報やイデオロギーによってであれ、ポジティブではあったわけでしょう。社会に対して希望をもっていたわけです。この戦争に勝ちさえすれば、というような希望。みんなが社会を向いている、困難ではあっても…

不安とは、ああそれは僕にとつて何処か精神の一箇処に集まつてゐる血液の鬱積のやうだ。(風の章)

不安というのは、それ以上考えが進まない、考える材料がない、考えること自体が苦痛で避けている、考えくたびれているというような部分から発してくる危険の信号のようなものじゃないでしょうか。そこが問題なのはわかっている。でももう解決のめどがない、…

青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するに時間をかけねばならない。(原理の照明)

不潔というのはお風呂に入らないというようなことではなく、昔風の言い方ですが自分の内面を誇張したり美化したり劇化したりしがちだというようなことですね。青年がある経験をしてある感情、たとえば悲しみを抱いたとしても、それを表現するのに大げさに嘆…

放浪と凱歌。僕が青春の終末に言ふべきこと。(原理の照明)

吉本は「言語にとって美とはなにか」のあとがきで「試行」にこの論考を書き続けているあいあいだ、沈黙の言葉で「勝利だよ、勝利だよ」とつぶやき続けてきたと書いています。つまり思考と実生活の放浪の果てのそれが凱歌とも言えるでしょう。沈黙の凱歌だけ…

僕の存在は何かにむかつて無限の抑圧を感じてゐる。僕は、どうしてもそれを逃れることは出来ない。存在は外的な現実の歪みを感じてゐる。あの歪みのむかふ側に自由があるのだ。あの歪みは無数の観念の亡霊をその周辺に集めてゐる。るゐるゐたる屍体の群、血の抑圧、しかも一様に傷つきはてた者たちは僕のやうに困迷してゐる。僕はその突破口をすすんでゆかねばならない。(原理の照明)

これは具体的には何を言っているのが分かりにくいですね。無限の抑圧を若き吉本に感じさせている「何か」ってなに?よくわかんないけど、その「何か」は現実の歪みの中心、ブラックホールみたいな感じで、「無数の観念の亡霊」をその周辺に集めている。亡霊…

すでに僕は知つてゐるのだ。神は僕を決して救はないだらうと。僕は自らの力を何ものかから引離さなければならない。それを分離しなければならない。(原理の照明)

自分が無意識に前提にしている観念から自分を引きはがすのはとても難しいものです。それを可能にするのは「あれ?」とか「おや?」というかすかな異和感の気づきです。その気づきもまた無意識の信じ込みで埋め込まれていきます。でもまた「あれ?」と思う。…

僕は度々正義の味方になることを強制せられた。だが僕には常に一つの抑制があつて、正義といふような曖昧なものに与することを願はなかつた。それはひとつの知心とも言ふべきもので、僕が何を欲するかといふことを通じて、人間が如何なるものかを知らうとする心があつた。そして最も主要なるものは最もかくされてゐることを信じてゐた。(科学者の道)

ここで正義というものを曖昧なものと思わず正義の味方になってしまうとどうなるのか。それは「正義」という共同的な理念の陰に、自分の個人の心が隠れてしまうことになると思います。だから「自分が何を欲するか」とか、「人間が如何なるものか」というよう…

衰弱した精神にとつては休息が必要なのだ。それなのに僕はいつも酷使してゐる。すると増々肉体と精神とが不均衡になつてゆくのが判る。脳髄は敏感に衰弱し肉体はしこりのやうに悩む。僕は増々自分を窮地に追ひ込んでゆくようだ。(忘却の価値について)

まあ二十代の青年の吉本にこういうことを言われてもね・・・60歳を超えちゃうと、肉体が精神のセンサーだということがよくわかる。歯が抜ける、耳が遠くなる、目が衰える、そういったことは世界への通路が詰まっちゃうことなんですよ。しかし人の心身は不…

○科学者とは、科学に没入し、次に否定し、次に肯定し、これを超克した人にのみ与へられる名称である 科学に没入したのみの人を科学者とは言ひ得ぬ それは泥と飯とを前に並べられて泥を撰ばずに飯を喰ふ小児をもつて栄養学者と言はれないのと同日である。(科学者の道)

科学にしても栄養学にしても知識の世界、知の世界ということですね。吉本は知の世界に没入していくんですけど、どうしても没入しきれないものがある。知の世界よりも現実の世界のほうが大きいと感じるんでしょうね。それは特別な現実じゃないんで、ごくあり…

○矛盾的自己同一の世界では、それに於てあるものが相対立し空間的に一である 即ち世界は多の一である かかる方面に於ては何処までも物質的であるがそれが一の多として時間的であるとしては生命的である 而してそれが何処までも時間的として多否定的なる時世界は全体的一として自己形成的となる かかる場合個物は世界を宿すものとして個体的となり身体的となる かかる方向に於て我々は意識的となるのである 意識の世界は現はれるのである。(科学者の道)

矛盾的自己同一というのは西田幾多郎の概念だろうと思います。読んだことがないので解説はできませんが。手に負えないのでパスさせていただきます。おまけありません。

戦後、わたしは、どんな解放感もあたえられたことはない。聖書があり、資本論があり、文学青年の多聞にもれず、ランボオとかマラルメとかいう小林秀雄からうけた知識の範囲内での薄手な傾斜があり、仏典と日本古典の影響があつた。戦争直後のこれらの彷徨の過程で、わたしのひそかな自己批判があつたとすれば、じぶんは世界認識の方法についての学に、戦争中、とりついたことがなかつたという点にあつた。おれは世界史の視野を獲るような、どんな方法も学んでこなかつたということであつた。(過去についての自註)

吉本にとっての敗戦は、こころの底から信じ込んでいたものが間違いであったと気づかされたということでした。日本の軍国主義が教え込んだ歴史や世界や現状というものが、間違いに充ちたものだと気づいた。それは宗教団体のなかで育って、まったく疑うことな…

ひそかに経済学や哲学の雑読をはじめたのはそれからであり、わたしは、スミスやマルクスにいたる古典経済学の主著は、戦後、数年のうちに当つている。いま、それらのうち知識としては、何も残つていないといつて過言ではない。このような考え方、このような認識方法が、世の中にはあつたのか、という驚きを除いては。(過去についての自註)

副島隆彦が述べていたことで「それだ」と思ったことがあります。日本人の評論家というのは、自分を問題の外側に置いて語るやつが多いということです。自分の立場をはっきりさせないで、問題の枠外に超然としているように語る。それを知的とか思っている。欧…