また、現在の情況の下では、徹底的に闘わずしては、敗北することすら、誰にも許されていない。かれは、おおくの進歩派がやつているように、闘わずして、つねに勝利するだろう、架空の勝利を。しかし、重要なことは、積み重ねによつて着々と処理したふりをすることではなく、敗北につぐ敗北を底までおし押して、そこから何ものかを体得することである。わたしたちの時代は、まだまだどのような意味でも、勝利について語る時代に這入つていない。それについて語つているものは、架空の存在か、よほどの馬鹿である。(過去についての自註)

こういう言葉は胸の底に届き、社会に対する目を開いてくれたものです。そして徹底的に闘って必ず敗れていく人物や集団を見抜く目を育ててくれたと思います。そして自分自身も敗れっぱなしではありますが、それが「敗北」という必然に値するものでありたいと考えてきました。しかしただの負けであることが多い。ほんとうの「敗北」の姿は人の心の底に残ります。それは伝説というものです。


おまけ
「村の家」より    中野重治
獄中転校して戻ってきた息子に語りかける父親の言葉です。

「それじゃさかい、転向と聞いたときにや、おっ母さんでも尻餅ついて仰天したんじゃ。すべて遊びじゃがいして。遊戯じゃ。屁をひったも同然じゃないがいして。竹下らアいいことした。死んだことア悪るても、よかったじゃろがいして。今まで何を書いてよが帳消しじゃろがいして。(中略)あかんがいして。何をしてよがあかん。いいことしたって、してりゃしてるほど悪なるんだや。あるべきこっちゃない。お前、考えてみてもそうじゃろがいして。人の先に立ってああのこうの言うて。(中略)本だけ読んだり書いたりしたって、修養が出来にゃ泡じゃが。お前がつかまったと聞いた時にゃお父つぁんらは、死んで来るものとして一切処理して来た。小塚原で骨になって帰ると思うて万事やって来たんじゃ・・・・」
「お父つぁんらア何も読んでやいんが、輪島なんかのこの頃書くもな、どれもこれも転向の言い訳じゃってじゃないかいや。そんなもんの書いて何するんか。何しるったところでそんなら何を書くんか?今まで書いたものを生かしたけりゃ筆ア捨ててしまえ。そりゃ何を書いたって駄目なんじゃ。今まで書いたものを殺すだけなんじゃ。」