さて私はその童話の本質を今「夢」であると考へやうと思います そしてその考へを押拡げて見やうと試みます 夢と言ふものが子供の生活でどんなに大きな部分であるかは申すまでもありません 一つの遊戯や考へはみんなその夢を現はさうとしてゐる努力であります 子供達は或一つの夢を作り出した瞬間からもうその夢にのつて、それからその次の夢にまで駆けて行くのです(宮沢賢治童話論 一、序論)

吉本は宮沢賢治が大好きなんだと思います。吉本が傾倒した同時代の文学者というと高村光太郎太宰治横光利一などがいるわけですが、その中でも宮沢賢治への傾倒の仕方は格別だという感じがします。それはたぶん資質というところで最も似ているというか、吸い寄せられるようなものを宮沢賢治が吉本に対してもっていたからだと思います。この初期ノートの宮沢賢治論はまだ幼いというか、これといった分析の道具も持たぬままに宮沢賢治にぶつかっていったという印象です。だから歯が立ってはいないんだけど、しかし何が狙うべき的か、というところは直感的に正確に把握されているというように思います。
この文章で吉本が宮沢賢治の童話の本質を「夢」だといっているところは、後年の「宮沢賢治論」(1989 筑摩書房)などを読むと、その「夢」は眠って見る夢だけではなく、入眠状態という白昼夢の世界や、身体の極度の減衰による臨死体験の世界も含んで考えられています。そしてそのように拡張された「夢」の世界は、宮沢賢治の終生の信仰であった日蓮宗の宗教の世界の本質に接続されて考察されていきます。つまり宗教、この場合仏教ですが、宗教という共同幻想の成立の秘密に、宮沢賢治という熱烈な信仰者であり天才的な文学者であった人物の作品の分析を通して肉迫しようとしているわけです。
またもうひとつ重要であるのは、「視線」という問題で、宮沢賢治の童話に出てくるシーンの特異な印象というものを「無限の垂直方向からの視線」というものを想定して解き明かそうとしていることです。逆にいえば宮沢賢治には、この人の文学を掘り下げればきっとこの世界の秘密に触れることができると感じさせる本格性があるわけです。
宮沢賢治ということで思い出すのは「ハイ・イメージ論Ⅲ」(1994 福武書店)のなかの「幼童論」という考察です。ここには宮沢賢治論と「母型論」との通路のひとつがあると思います。「幼童論」はグリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」を取り上げています。それに関連して宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」という童話作品を取り上げます。もうひとつ柳田国男が「山の人生」という著作で紹介した炭焼きをしている父親がふたりの子供たちを殺してしまう実話を取り上げています。
この吉本の考察でなにが核心的かというと、母と子の関係の本質です。グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」に登場する母親はふたりの子供(ヘンゼルとグレーテル)をもつ貧しい木こりの夫婦の妻です。国中が飢饉に襲われて、もう日々のパンが手に入らなくなったある夜、木こりの夫婦はベッドでひそひそ話をする。妻は明日子供たちを森の奥へ連れて行って、そのままおっぽり出してしまえばいい。そうすれば二人の子供は帰ってこれないから、つまり死んでしまうから私たち夫婦は救われるよと夫をたきつける。そのひそひそ話を聞いていた二人の子供は、翌日森の奥に連れて行かれるときにボケットから小石を道に落としながら森に入っていく。その小石を目印にして逆に辿って二人の子供は無事に家に帰ってくる。当てが外れた母親は、翌日はもっと森の奥深くに連れて行けと夫をたきつける。そういうように話は進んでいくわけですが、これはたいへん「残酷な母親」だといえるわけです。
これに対して宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は「ヘンゼルとグレーテル」と同様に木こりの夫婦とふたりの子供が登場します。やはり飢饉になり食料がなくなりしかも木こりの夫婦はひどい病気になる。そこからが「ヘンゼルとグレーテル」とまったくちがって、木こりの夫婦はまず父親が森へ出て行って帰らなくなる。次の夜に母親は子供たちに家にある粉をふたりで少しづつ食べなさいと言い残して森に入っていく。要するに木こりの夫婦は子供たちのために食料を残して森に死ににいったということになります。
柳田国男の「山の人生」に出てくる挿話というのは、西美濃の山のなかの炭焼きの男がいて二人の子供がいる。女房はとうに死んでいない。そして不景気になってもう明日の食べ物もないというところに追い詰められる。男が夕方眼がさめると、小屋の入口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の頃で、ふたりの子供が日当たりのところにしゃがんで何かしているので、そばに行ってみると、仕事につかう斧を研いでいた。そしておとう、これでわたしたちを殺してくれといって、小屋の入口の材木を枕に、ふたりの子供は仰向けに寝た。炭焼きはもうくらくらして前後もわからぬうちに、二人の首をうち落としてしまった。そしてじぶんは死ぬことができず、やがて捕まって牢に入れられた、という挿話です。これを柳田国男は偉大な人間苦の記録だと書いているわけです。
この三つの話に対して吉本が述べるのは「愛、憎悪、残酷、犠牲、献身というような関係概念は動物的という段階を包括しなければ成り立たない」という考察です。そして「動物的という概念にいちばん近いのは幼童性だといっていい」と述べています。よしもとはこの考察を「わたしたちはうっかりしがちだが」というふうに付け加えています。誤解しがちだということでしょう。愛、憎悪、残酷、犠牲、献身というようなことは大変人間的なことだと私たちは思いがちである。しかしそれは違うのであって、「ぎりぎりの情況で母が子供に対して冷酷な行為をとるか、慈愛の行為をとるか、また子のほうが機智(叡智)をもって対応するか慈愛に対応する盲目的な情愛で接するかは、動物的という概念を包括するかぎりどちらでも等価でありうる」と吉本は述べています。
なるべく平たく言い直してみると、母と子供とが動物的な段階を包括するようなところで存在してる状態とは、まだ母と子以外の世界で構築される倫理が存在しない状態だということではないかと思います。まだ世界が母と子という大きなふたつの要素だけでできている精神の状態と、そのような歴史的な共同体の段階を考えると、そこでは現在の社会感覚からは異様であるようなことが異様ではない、当たり前のこととして通用していたとみなせるということです。そこでは母が子を愛することも、母が子を残酷に扱うことも大きな隔たりはない。その閉じられた世界のなかだけの感覚があって、そこでは愛と憎悪が、残酷と犠牲が、同じ道の同じ風景のようにつながっている。その倫理が善悪未分離の、強大な情動が揺れ動くような世界は、今の社会を生きる私たちに懐かしさと恐ろしさと憧れを混ぜたような魅力をもって惹きつけます。坂口安吾が「たましいのふるさと」と呼んだのもそれだと思います。それが民話とか童話とか、あるいは古代の物語のもつ魅力なんだと思います。もう30年くらい前に私が吉本のこの考察の文章を読んで感じたのは、愛とか憎しみという男女の関係で私たちが振り回される感情は、動物的というものを包括した感情ということになる。それは「人間的な美しさ
というようなありがちなイメージのものではなくて、実は動物的なもの、倫理の未分化なもの、残酷や献身という理不尽なものにそのまま通じている怖ろしいものじゃなかろうかということでした。その時は衝撃を感じましたが、還暦をすぎた今思い返すと、確かに吉本のいう通りの怖ろしいものじゃわいと体験的にわかる気がします。にんげんは生身に感じる愛や憎しみの情動によって、今もなお古代や幼童性につながっているのだと思います。