宮沢賢治の作品には絶えずこの悲しみが付きまとつてゐますが果してこれはどんな所から生れて来た要素なのでせうか 私は思ふに二つの主たる理由があると考へます その第一は彼の生れ持つた性格なのです 彼には一面には脆くくづれてしまふ様な処があり、醜いもの悪意あるもの、その様なものをさけるやうな消極的な処がありました そして清純なるもの善意なるものを探究してその醜さ悪意のわりなさを、一歩高い所に立つて眺めやうとしたのです(宮沢賢治童話論)

宮沢賢治は生涯経済的にちゃんと自立できなかった人で、親の仕送りに頼って暮らすことから抜けられなかった人らしいです。だからそういう面から見ればダメな人だともいえます。一人前の社会人になりきれなかった弱さをもった人といえるでしょう。宮沢賢治にはだから十分に社会にもまれ、一人前になったという人の持つ社会観の分厚さのようなものが足りないので、強烈な倫理観が、社会観の分厚さをくぐってよく濾過して流れてくるのではなく、いっきに倫理的な純粋さが流れてきて、そこが時として読んでいて辟易するというか、倫理と現実を短絡していると感じさせることもあるのだと思います。
そういう面では、宮沢賢治は現在のひきこもりだとかフリーターとかの生き方をせざるをえない若者たちの先駆けみたいな面もあると思います。ひきこもりやフリーターとなってしまう内面の問題を徹底的に掘り下げれば宮沢賢治の世界に通じる通路があるように感じます。最近、「ツレがうつになりまして」と「人間仮免中」と「俺はまだ本気出してないだけ」というマンガを読んだんですが、それぞれとても面白かったです。その面白さはこの社会で一人前になることがどうしてもできない、あるいはどうしてもそうなりたくない人の話で、それは現在の社会の倫理や価値観が身をよじって新しいものに変わろうとしている兆候を鋭敏にとらえている作家の作品だと思いました。宮沢賢治のもつ深さは、そういう現在の内面性の変動の底に届くだけのものだと思います。つまり死んでいない作品だと感じます。
私としては宮沢賢治の作品と「母型論」の通路を見つけ出したいと思います。しかしそれはなかなか難しい。しかし「大洋期」という乳胎児期の問題を宮沢賢治が体現していないはずはないと思っています。「銀河鉄道の夜」でジョバンニが銀河鉄道に乗る、それは死後の世界に行くことを意味するわけです。そして銀河鉄道は唯一無二の世界に行こうとしている。死後の世界を通過して到達する唯一無二の世界とは何か。これを生の後の死の世界と考えないで、生の始まりの世界へ戻ることだと考えれば、「銀河鉄道の夜」が向かうのは「大洋期」の世界だと考えることもできるだろうと私は考えます。では唯一無二の世界とは宮沢賢治にとってどういう世界と考えられていたのか。
宮沢賢治の世界」(2012 筑摩書房)という吉本の著作に書いてあるのですが、中国人の詩人の黄瀛(こうえい)という人が晩年の病床にあって寝起きも自由にできない宮沢賢治を訪ねたときの話があります。その時のはなしを黄瀛は自分で書いているのですが、宮沢賢治はその時、黄瀛自身がその話をよくわかっているとはいえないが、でも聞いていると何か恐ろしいような宗教の話をしてくれたというのです。吉本はそれが宮沢賢治の最後の頃の、宮沢賢治が生涯追い求めた「ほんとうのほんとう」の宗教的な姿ではないかと述べています。
これに関してすぐ思い出すのは吉本が親鸞の晩年の思想について述べたものです。私がうろ覚えで言葉は正確じゃないんですが、晩年の親鸞は仏の救いというのはにんげんを身体も死後の世界もない光の粒子のようなものに還すことなんだというようなことを言っていると述べています。その親鸞の言葉を吉本は、親鸞という人はちょっと恐ろしいことをいう人だ、自分にはとてもここまで言い切ることはできないといっています。その最後の親鸞の思想の恐ろしさと、最後の宮沢賢治が中国人に詩人に語った恐ろしさはもしかしたらつながっているのかもしれないと私は思います。そして人間にとって恐ろしさ、恐怖の根源はどこからくるのかといえば、それは出産や「大洋期」に感じる宇宙的な恐怖に淵源があるのだとすれば、親鸞宮沢賢治は宗教的な形で人間にとっての「他界」の根底に触れたのかもしれません。それが「恐ろしさ」を感じさせるんだと思います。
吉本は宮沢賢治の思想をヘーゲルハイデッガーキルケゴールの思想を通して理解しようとしています。ここはたいへん難しいので解説する自信がないんですが、具体的な例として吉本が述べている部分はまだわかるのでそこから解説します。吉本が述べているのは、人間が成長するということは何か、それは人間が母体から分割される、要するに分娩してこの世に生まれてくるというところに成長という概念の起源があるということです。すると成長というのは何かというと、子供が自分から自分を差異づけるということ、自分から自分を疎外するということなんだということになります。すなわち子供が子供自身を自己否定する、その否定性というものが成長という概念の起源にあるということなんです。こういう論理はヘーゲルからきているので、よくわからないと思われるでしょうが、まあなんとなくわかってください。私もよくはわかりません。さて子供が現在の自分自身(子供自身)を否定して成長していくとすれば、逆にその必然性(子供が成長することは止めることのできない必然だという意味で)を否定することがありうるとすれば、それは「否定の否定」ということになりますが、それは「幼児性」だと吉本は述べているのです。
宮沢賢治はすぐれた童話を書いていますし、幼児性が宮沢賢治の天才性の核にあるというのは誰もが感じることです。吉本はその「幼児性」というものをさらに掘り下げて考えているわけdす。「幼児性」というのは幼稚とか未熟という面があるわけですが、それは一面に過ぎないので、重要なのは人間が成長していき、そして死に至るという必然性に対して「否定の否定性」としてある場所から異を唱えている、それが幼児性だと考えるわけです。そしてその意味では、幼児性という概念は、人間が死をせき止めている概念としても成り立っていると吉本は述べます。「死をせき止めることによってしか人間は生きていないわけで、いずれにせよ死をせき止めるということの中で幼児性の概念も考えられ、また幼児性という概念のキーワードであるくり返しという構造的・構成的な反復が起こる(「宮沢賢治の世界」)」くり返しというのは幼児性のキーワードであり特徴です。幼児は同じことを飽きもせずに繰り返す。また面白いとおもったことは大人に対して何度でも繰り返してくれることを要求する。宮沢賢治の童話にも同じフレーズが繰り返されるものがたくさんあるわけです。そしてここからが吉本の思想の特質ですが、その幼児性の特質を歴史的なものに転換します。すると幼児の語りというものの特質が、民話とか神話、伝承というものの特質につながることがわかります。吉本によれば、伝承や神話、また幼児の語りというのは、そういうものの持っている言語の身体みたいなもの、つまり言語が身体から未分化であるところでは、幼児性や、その象徴である構成的な反復性必ず伴うものだということになります。
吉本の考えでは宮沢賢治は自分の内面のなかの、幼児性の出てくる場所(心の中の架空の場所ですが)や、逆に大人性といいますか成長性というか、そういうものが出てくる場所や、さらにもっと異質な「よくわからないものがよくわからないままにある場所」というものが鋭敏に嗅ぎ分けられてそれが表出されているということになります。するとこちらの世界である大人性の世界とその倫理と、あちらの世界、他界の世界というものとその倫理と、さらにその奥に仄かに視える「他界の他界」ともいえるような世界が宮沢賢治の作品のなかに往還するものとしてあるんだといえると思います。それは「死後の世界」であるとともに、幼児期健忘によって忘れ去られた世界、つまり大洋期の世界としてもとらえることができると私は考えます。
中途半端に解説を終わるので申し訳ないですが、ちょっと興味を刺激された方はぜひ宮沢賢治の作品と吉本の批評をお読みになることをお勧めします。そこのひきこもりや、まだ本気出してないだけのあなた、読んで損はしませんよ。