もし、わたしに思想の方法があるとすれば、世のイデオローグたちが、体験的思想を捨てたり、秘匿したりすることで現実的「立場」を得たと信じているのにたいし、わたしが、それを捨てずに包括してきた、ということのなかにある。それは、必然的に世のイデオローグたちの思想的投機と、わたしの思想的寄与とを、あるばあいには無限遠点に遠ざけ、あるばあいには至近距離にちかづける。(過去についての自註)

この文章は具体的にいえば、たとえば戦争中に軍国少年として戦争を徹底的にやるべきだと信じていた過去の吉本自身というものを捨てたり隠したりしないということです。戦争に敗けて戦争中のイデオロギーは悪い軍部が国民を支配するために振り撒いたものだという考えが主流になった。これからは平和や民主主義が大切だとされて、まるで最初からそう考えてきたんだと言わんばかりに平和や民主主義に乗り換えるものが大勢いたんだと思います。吉本も軍国主義から戦後左翼思想に転換したわけです。だから表面的にはある時には他の左翼のイデオローグたちの言説と至近距離にあるように見えることもあります。たとえば憲法9条の擁護という吉本の主張は表面的には社民党共産党の主張と同じでした。しかし内実はまるで違いました。なにが違うかといえば9条の擁護に至る理路が違うわけです。思想の土台である世界の分析方法がまったく違うんですが、それを辿らなければ同じお仲間のように見えてしまいます。同様に主張が他の左翼イデオローグと無限遠点まで離れるということもあります。たとえば原発に対する判断は反原発に集うあらゆる左翼的な集団の考えと異なるわけです。そうした他のイデオローグとの違いの根本に自分の体験してきた思想の経路を隠さないということがあると吉本は考えているわけです。かって軍国少年であって、心から軍部のイデオロギー天皇制を信じていた自分自身を否定するときに、その信じ込んでいた無意識の底をえぐって、つまり思想として包括する方法を探そうとしました。その方法を探すことが思想の転換を促すわけで、転換した左翼思想のなかにかって信じ込んだ軍国思想の根源の問題が包括されて引き継がれているということになります。
吉本と同じことをかって太宰治も書いています。

「かくめい」           太宰治
 じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。

さてそれでは「母型論」の解説をさせていただきます。男と女とは本質的に何か。どこがどう違うと考えればいいのか。吉本はフロイトの女性の定義を重要視しています。
フロイトは<女性>というのは、乳幼児期における最初の<性>的な拘束が<同性>(母親)であったものをさしている。そのほかの特質は男性にたいしてすべて相対的なものにすぎない。身体的にはもちろん、心性としても男女の差別はすべて相対的だが、ただ生誕の最初の拘束対象が<同性>であったということだけが<女性>にとって本質的な意味をもつ、というのがフロイトの見解であった。この見解は興味ぶかく、また暗示的である」 (「共同幻想論」 巫女論)
乳胎児というものはすべて母親に対して受動的でしかありえない。したがって乳胎児は男女ともに女性的であると考えられる。そういう意味ではこの時期には男女の違いがない。男女の違いは、母親にたいして同性として受動的であったか、異性として受動的であったか、という相違にしかありえない。
この生誕の時期にさかのぼるフロイトの規定した「相違」ですね、この「相違」から導き出せる男女の違いというものは何かということになります。男女の違いが、この「相違」とつながっていないなら、それは本質的な相違ではないということになるわけです。
吉本はこの「相違」から理路としてつながる男女の違いについていくつかのことを述べています。ひとつは以下のようなことです。
フロイトにならっていえば、最初の<性>的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向はすくなくとも<性>的な拘束からの逃亡ではありえない。母性にたいする回帰という心性はありうるとしても、男性はけっしてじぶんの<男性>を逃れるために女性に向かうことはありえないだろう」(「共同幻想論」巫女論)吉本隆明
そしてここで言われている「男性でも女性でもない架空の対象」というものは自己幻想か共同幻想でしかありえない。だから女性というのは、男性や女性という他者を排除して性的対象を求めるとすれば、性的対象を自己幻想か共同幻想に選ぶものを指しているというのが吉本の女性の定義になります。
しかしちょっと戻って考えてみたいと思います。女性は最初の性的な拘束が同性であるということから逃れようとする。しかし男性は自分の男性から逃れるために女性に向かうことはありえない、という記述はそう分かりやすいものではないでしょう。正直いって私にもよくわからないんですよ。だからここをほじくりましょう。
このことに関連する吉本の記述を別のところから引用してみます。
ボーヴォワールでなくても、たとえば大庭みな子でもいいし、金井美恵子でもいいんですが、じぶんが能力も経済力も、あるいは性愛についての考え方も、男とまったくおなじようにかんがえることができる。そうおもっている女性がいるとするでしょ。女性のそういう感じ方、考え方をつきつめていくと、けっきょくなにが浮かび上がってくるかといえば、なんだこの人は<女>じゃないかということしか出てこないとおもうんです。
逆に男のばあいだと、究極までそういう考え方をつきつめていくと、まったく観念的な<人間>というところに収斂する。相手も人間で、こっちも人間というところに収斂する気がします。
女性の方はやっぱり<人間>が浮かび上がってこないで、男女の差異だけが最後に浮かび上がってくるようにおもいます。(「対幻想」 吉本隆明芹沢俊介
こうした考察はフロイトの述べた男女の「相違」ということと理路がむすびつくところで考えられているはずです。
もうひとつ引用します。これもフロイトの規定する相違から導かれた考察でしょう。
「そのわずかの違い(フロイトの規定する男女の「相違」のこと。註:依田)がどう作用するかといえば、それは自然性にといいましょうか、つまり乳児期のはじめ、胎児から乳児となって胎外へ移った段階でならば、動物性と人間とおなじですから、そこに戻っていこうという衝動が女性の方が多くて、男性の方が少ないという、そういう問題に作用します」(「対幻想」 吉本隆明芹沢俊介
つまりこれは女性が退行する場合、出産直後の動物性の段階に戻っていこうとする。男性は乳児期のそれよりは少し後の段階に戻るということなのだとおもいます。そして吉本は女性が動物性と人間との分化がまだ未分化の段階に戻っていった心性を「泥のようなニヒリズム」という言葉で述べています。こうした吉本の記述はみな胸の奥に突き刺さる。真実が述べられている手ごたえを私は感じます。だからその吉本もよく説明してはくれていない理路を辿ってみたいとおもいますが、それはまた次回のこころです(BY 故小沢昭一