「観念的な思考と呼ばれるものは、それが現実から如何なる源泉をも得ていない思考である。抽象的な思考とは、現実からの抽出に関与する思考である」(断想Ⅴ)

前半のゼミの文章の続きです。観念的な思考をする者は要するに子分肌の奴ですから、大変なことは親分にまかせて、親分の下で群れをなしていればいいわけです。しかし抽象的な思考をしようとする者は、自分自身の現実の存在から、自分自身の抽象をおこなっていかなくてはなりません。つまり思考として親分を持たないということになります。小さいながらも自分が初代を張るようなものです。
つまりそれが独立、あるいは自立です。そういう思考は自分の生活を二重化します。現実のなかをふつうの生活人として歩んでいる自分と、ふつうの生活人であることを抽象して思想として何かを生み出そうとしている自分が二重化することです。その二重化を生きることは、なんとも言いがたい関係の寂しさを、あるいは関係の貧しさを作り出します。少なくともいつの日にかその抽象された思考が現実化されないうちは、沈黙した内面が言葉を現実に対して遅れさせていきます。平たく言えば、何を考えているのかよくわかんない奴というあり方で人の中に混ざっているようなところを通り抜けていきます。吉本のような存在が社会の中に少ないのは、本当はそういう生き方が苦しいからで、能力や時代の問題ではないと私は思います。

そんなバカがつくほど真っ当である吉本の詩を一曲。

「信頼」       吉本隆明

わたしたちの信頼をたしかめるために
遠い虚空のところまで思想を凝縮させてみた
するとひとりは形どおり<架空>だといつた
ほんとうは空気が薄くなって息切れがしたのに
ひとりはいつた<そこでは結婚というのはあるのかい?>
いいやそこでは男と女がなくなつて
ただ妙な雲のような結合ばかりが問題になる
ひとつの存在はひとつの存在と空孔を出しあつて一対になる

わたしたちの信頼をたしかめるために
限りなく生活を降りていつた
するとひとりは形どおり<平凡>だといつた
ほんとうは生れ、はたらき 子を産み 死ぬ という順序が怖いだけなのに
ひとりはいつた<そこに思想はあるのかい?>
いいやそこでは長ねぎのかわりに玉ねぎをかつたり
鶏肉のかわりにもつ(、、)をたべたりするのが思想だ
たばこ屋でそこの娘にちょつと笑うのが結合だ
ひとつの存在はひとつの存在と日常を出しあつて一対になる

ところでたれも耐えなかつた
わたしたちは背きあつた
時よ時代よ
何故かわたしは耐えている
もうすこし何がどこでましであるのか
世界の視えない地図のなかに
わたしはわたしの信頼をさがす<身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな
身と霊魂をゲヘナにて滅し得る者をおそれよ>
ところでそれはない
わたしの思想と 生活のちょうど中間のあたりで
身をすりよせて肩を組みあつているもののなかに
いちばんそれがない

と或る晨
ひとびとが眼をさましたとき
それから食卓をかこんで喋言つているとき<なんだかこの世界は変わつたようだよ>
そんなふうにわたしが死に
そんなふうに信頼は死に そのかわりに
この世界はいつ変えられるのか