「我々は、生存せんがために生存そのものを持ってゐる。これ以外のあらゆる生存の意味附けは観念にすぎない。観念なるものは、一切虚偽である」(断想Ⅴ)

生存には形式がある。あるいは構造がある。ただ生きているということについて語ることに、私達アジアの人間はよくなじんでいると言えます。それは仏教などのアジアの宗教がただ生きているという自然に近い人間のあり方について多くを語ってきたからです。しかしそれを形式、あるいは構造として論理的に追求するという姿勢はアジアの苦手とするところです。なぜなら考えるということは、自然に一体化したいというアジアの理想を阻む行為だからです。三木成夫によれば、考えるということは自然な呼吸を止めることなしには行われない。考えることがすでに自然に対する異和です。考えることが人間をそれ以前の動物状態から区別し誕生させたとすれば、いったい考えるということを人間に強いた根源の力は何でしょう?それについての吉本の考えは・・・・・・長くなるので、あとは詩で勘弁してください。
これは「死者の埋められた砦」という短い詩を3つ並べた連作の3番目の詩です。

    3  遠い声        吉本隆明

遠い声が未知らぬ井戸をのぞかせる
滑車の幻のようにきみの存在が
きみをたしかめに降りていく
その深さはどこまであるのか?


空は遠い筒になる
死んだ鳥のおうなものが
いまそこを過ぎたとしても
きみにそれは記憶をすぎる事件
だとおもえるだろう?
とにかくきみはきいたのだ
ささやきが轟きのように聞える世界で
木霊が輪のようにのぼつていく魂の辺境で


すべて底をつくというのはいいことだ
にんげんがにんげんから遠ざかるということは
すでに遠いかすかな声しか
耳はきけなくなるということは
いいことだ
すれちがつたとき
さつと触れた掌の温もりのように
死者がきみに呼びかける遣りかたは