「若し人間が動機によって動くものであるならば、歴史は動機の連鎖によって描 かるべきである」(秩序の構造)

動機というのは内面のものです。モチベーションです。この動機がなんであれ、それが現実に激突するとある軌跡を描きます。つまりこうしたいと思うことを本気でやると、それなりに現実にもまれるわけです。そして動機とは異なった結果を生み出します。しかしこういう解説は以前に書いたと思うので少し別のことを書きましょう。
歴史というのは動機ではなく結果をつづったものです。動機が現実とぶつかって別のものに変わった結果だけを捉えていきます。しかし人間の存在というものを考えれば、動機に目を向けない歴史というのはおかしいという考え方があります。しかし内面の隠された動機を描くことは難しい。難しいけど、動機の連鎖で歴史が描かれるべきだという考えを吉本は述べています。
動機の通りの結果が得られないことを繰り返すと、そのことに耐えられなくなる人が出てきます。純粋な動機なんて結果が得られなければ糞じゃないか、と考えます。人生は短い。結果がほしい。そして結果から行動を逆算して生きようとし始める。それを有効性と呼びます。有効性を至上と思うことは結果を至上と思うことです。そし動機の純粋性は捨て去られます。とはいえ、かって動機の純粋性に賭けた記憶がのこり、有効性の積み重ねで、かって夢見た純粋性に辿りつくのだという言い訳もどこかに残しています。それが現実のリアリズムを知っていると豪語しつつ現実と妥協する人間のあり方です。
しかし世の中には、そうして結果を生み現実を占有していく魂の抜けた連中ばかりがいるわけではありません。結果を問わず動機の純粋性に賭ける後先を考えない熱い連中もいるわけです。また、動機の純粋性が望む結果を得られないことを熟知し、現実にぶつかって予想外の結果に終わること(負けること)を繰り返し、そのたびにその体験を分析して現実の解析を推し進めるという、こらえ性と知力のある少数の人間もいます。吉本はそうした人間のひとりです。
戦後、吉本が社会的現実と激突したのは組合運動であったと思います。そしてその組合運動の体験の先でぶつかった最大の社会的な運動が60年安保闘争でした。
60年安保が必敗の闘争であることは吉本にとっては自明(ハッキリわかってる)のことでした。安保条約を否定するという動機がどんなに大規模な市民運動に盛り上がっても、結果を生まない(条約が通ってしまう)ことを知っていました。
たとえ命を賭けようと、ダメなものはダメだと判断していました。だからこそ、命までは賭けられないと思っていました。命を賭けるよりも、その動機と結果の落差から、その絶望から現実の構造を解析しようと思っていたのです。この無類に冷徹な認識力は、当時「勝った勝った」と自画自賛したい左翼の諸党派に憎まれたと思います。しかし私はこの冷徹さこそが、無償性と現実とを繋ぐか細い道を照らしていると思います。