「批評家だけが批評をなし得る」(原理の照明)

ここで批評家と言っているのは、批評をすることから逃れられない資質を持つ者という意味です。批評家という職業をやっているという意味より、もっと根深いところを指しています。批評的であるしかありようのない資質のことです。それはどういう資質なのか。
批評とは、ふつう他人の作った小説や映画や詩を分析する作業と思われています。もちろんそれも批評ですが、そうした他人の作品の分析も徹底すると、個々の作品の根底にある言語や社会の共同観念や心という普遍性の分析に行き着きます。そのようにして吉本は批評の概念を、個々の作家の作品分析という枠を超えたものに拡大し、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」といった批評を展開しました。
ではそこまで拡大された批評とは何か。それは人間の生み出す観念の世界を根底から把握したいという衝動が現実化されたものだといえます。ではそういう衝動をやみがたく抱く資質とは何でしょうか。
まずそうした資質(の持ち主)は、この世界を覆いつくしている観念の世界、それは文芸だけでなく、政治も思想も学問も宗教も法律も含まれていますが、そういう観念の世界に何故か深い否定の感性を抱いているヤツということになりましょう。この深く心に巣くった否定、疑惑、追跡の衝動が批評の資質、その持ち主がここでいう「批評家」です。
こうした批評家自身による批評への批評といいますか、批評家が自分をどう感じているかという問題に鋭い率直なことを言ったのは小林秀雄だと思います。小林は(正確には再現できませんが)批評というものを指して、「誰でも当人のいないところでは、いない当人をイキイキと批評したりするものだ。そこではみな鬼になる」というような言い方で批評の資質を「鬼」という呼び方で指したのです。
こうした批評自身の自己批評、自己規定という視点が生じると批評というものはさらに内向します。内向するということは孤独になるということです。人間の観念の生み出す世界を肯定し、その世界の肯定や無自覚な受容の上に表現を重ねることのできない一群の者達(批評家たち)が、この世界の根底を解剖する。あるいは解剖に生涯を費やして老いてくたばっていく。その結果である批評にはもちろん世界の根底的な解剖という意義があります。しかしその者たち(批評家達)の人生とは何か。
それはもしかしたら、この社会や言語や精神の普遍性といった事柄以前の、その人の人生の始まりにまつわる、哀しい母子関係の生み出した否定の衝動に駆られて駆け抜けたということにすぎないのではないか。その問題が批評ということの背後につきまとう、という視点を小林秀雄が提出し吉本が深めたのではないかと私は思います。追いかけて追いかけて、果てしなく追いかけて追求したいという衝動。疑って疑って、皮を剥いで骨まで剥がなくてはいられない衝動。もっともっとホントウのことが隠されているという止むにやまれない暴露の衝動。確かにそれは批評の資質です。そしてそうした資質に自ら気づく時、批評は内向し、批評は批評の資質を持つものの孤独な劇という姿を顕します。