● 「人間は抽象的な原因で死を選ぶことは出来ません。何故ならば、死は最も現実的な事実を指すものだからです。死の選択には、当然、原因が要ります。そうと思はれない場合にも矢張り、生理的衰弱があります。」(少年と少女へのノート)

これは人は何故自殺するのか、という問題です。自殺をする人は死の意味づけを自分でする場合があります。例えば三島由紀夫自衛隊の市谷駐屯地で、自分の腹をかっさばいて、首を盾の会の隊員の介錯で切り落されて死ぬという凄まじい自殺をしました。三島は天皇のため、日本のために死ぬという公的な意味を自分の自殺につけようとしたと思います。公的な意味とは、三島の政治思想、文化に対する思想です。それは共同体に関する思想であるといえます。そういう思想はかなり抽象度の高い思想ですから、三島は抽象的な原因、理由で死んだのか、ということになります。少なくとも三島はそう思わせたかったし、そう思っている人も大勢います。また戦後も政治思想、政治行動の挫折の中で自殺した人は多くいますし、文学的な煩悶から死を選んだというように思われている文学者もいます。国のために、文化のために、民衆のために自殺した、そういう自殺はありうるのか。
初期ノートの若い吉本は、そういう意味づけを疑います。それは吉本自身が戦争死と、自分の心の奥から来る死への傾向というものに振り回されて生きてきたからです。政治や文化の問題に打ち込み、多くのことを犠牲にし、出口のない八方ふさがりの状態に陥ったら、人は追い詰められます。しかしそこには自殺の契機というものはない。なぜならそれは所詮共同体の問題にすぎないからです。公的な問題にすぎない。吉本の言い方では、政治とか国家とか文化について考える時間というのは、生活の中でわずかなものにすぎない。大半の時間は身の回りのささいなことに費やしている。公的な課題がいかに巨大に深刻に見えようと、共同体の問題は観念の問題にすぎない。自殺する原因は多くの時間をついやしている些細な日常と、その奥底にあるのだというのが、死に親しんで生きざるをえなかった吉本の直感だったと思います。
しかし公的な問題は腐るほど論じられますが、些細な日常を根底から論じようとする人は少ないわけです。では何故人は自殺するのか。この問題は吉本にとっても明瞭な解決ができなかったことだと思います。これが明瞭に分かるということは人間についてかなり根底的なことがわかることを意味します。三木成夫の解剖学の著書によって、吉本は肉体についての画期的な思想に出遭います。吉本が自分で作り上げた心についての理論を三木成夫の肉体についての理論と重ね合わせて、現在の老いた吉本は人間についての根底的で総合的な見解に至る糸口を見つけたと思います。私はそれを愛読者として眺めながら、とうとう吉本さんはやった。山谷を一人でくぐりぬけて広大な海までやってきた、というような感銘を覚えます。まだそんなことに興味を持つ人が少ないことが残念ですが、やがてざわざわとこの吉本の生涯を賭した思想的な切開の意義は人々に伝わっていくと思います。
三木成夫の理論は生命についての総合的な理論です。生命とは何か、という問題に正面から総合的に答えを出すスゴイしろものです。これを簡単にまとめるのは大変ですが、やってみます。一言で言うと、一言で言えるかな?つまり自殺も異常性だとすると、その異常性、病理性の根源は、解剖学的に確定された人間の胎児期における身体器官の起源にまで溯らないと把握することはできないということだと思います。身体器官の根源とはなにか。三木成夫によれば、胎児は受胎36日目に「上陸」します。上陸とは水棲動物的段階から陸生動物的段階に移ることです。胎児は最初魚の顔をしています。それが爬虫類の顔になり、哺乳類の顔になっていきます。三木成夫の著書に写真があるのでご覧下さい。衝撃です。この胎児の移り変わりは、人類の生命の歴史を凝縮したものだと考えられます。
そして三木成夫の身体についての理論は、人間の身体は動物的な部分と、植物的な部分からできているのだということを確定します。細かいことを抜きに言えば、人間の内臓は植物神経系で動く。植物神経系とは自律神経でつまり意識しないでも自己調節して生きている。この植物的な内臓の中心は心臓です。一方で感覚器官、五官覚というのは体壁器官ですが、それとか筋肉とかは動物的で、動物神経系で作られている。動物神経系の中心は脳である。この植物と動物の神経系は相互に乗り入れていますが、理論的には分けることができます。
この三木成夫の解剖学に吉本は自分が作り上げた心についての理論を重ね合わせます。すると人間の心の動きは動物性の神経から表出されたものと、植物性の神経から表出されたものに分けて考えることができるということになります。つまり画期的な見解は、心には植物的な内臓からやってきたものがあるということです。それは内臓が沈黙しているように沈黙した心だと思います。しかしそれは心の全体を捉え、心の病理を解明する場合に非常に重要な理解だと思います。これを吉本の言語理論に重ね合わせると、指示表出とは動物性の神経、感覚器官が表出していくもので、自己表出が内臓の動きである植物性の神経が表出するものであるということになります。吉本の理論が三木成夫によって身体や生命にまで拡張されるわけです。
胎児期の「上陸」の時期に、動物性の神経系から表出される心の動きと、植物性の神経系から表出される心の動きが分離される。そして分離された二つの心が結びつく、関係づけられるのもこの「上陸」の時ではないか、と吉本は考えます。
内臓からくる心の動きと、感覚からくる心の動きとがどう結びつくか、関係するか、その根底がお母さんのおなかの中で、受胎(これは妊娠とは少し時期が違います)36日目くらいに根源的に決定される。これが現在考えられる限りでは、最も起源にさかのぼった心の核にあるもの、と言えるでしょう。本当はもっと以前がありうるかもしれませんが、誰も分かりません。
もうひとつ重要なのは、五官覚の成立がやはりお母さんのおなかの中で、受胎後5〜6ヶ月で行われます。それから少したつと耳が聞こえるようになり、母親の声と父親の声の弁別もできるようになるそうです。心音も聞こえるようになります。つまり感覚の発生であり起源です。そして受胎後7〜8ヶ月で意識が芽生える。さらにそれから少したつとレム睡眠で夢を見るような睡眠の仕方を胎児はするようになる。胎児の夢が始まります。
では自殺を含む異常性、病理性の根源は何か。それはこうした胎児期の身体と心の起源のなかで、内臓に依存した心と感覚に依存した心が、その形成と関係づけの途上で正常に結びつかなかったことに根源があるのではないかと吉本は考えます。胎児期だけが異常性、病理性の原因ではありませんが、もし根源を問うなら、あるいは根源的な異常、病理を相手にしなくてはならないなら、そこまでさかのぼって把握する必要があるということになります。自殺もまた、根源を胎児期にもつと言えます。
ものすごく駆け足で書いちゃって、三木成夫博士にも吉本さんにもたいへん失礼なことしちゃったなぁ。でもそもそも無理なんスよ田原先生〜。こんな分量でまとめようとしたことが