「理性はいつも一致を願ふけれど、感情は乱れることを願ふものだ」(忘却の価値について)

これは分かりやすいことを言っていると思います。理性というのは、現実や体験を言葉によって概念に置きなおし、概念は他の概念との関係づけによって、さらに抽象された概念を作り出そうとする営みのことだと思います。理性は、論理を駆使することによってすべての概念を包括するような抽象度の高い概念を作り出そうとする衝動を持っていると言えます。一方で感情は逆に現実や体験からじかに揺り動かされる精神の部分であり、より身体に近いものです。理性が意思的な営為であるのに対し、感情は受身の身体的な自然であり、現実や体験の変化の中で変化し、また発動しては収まろうとする波のような性質をもつともいえると思います。
この文章には吉本の考え方の特徴があらわれています。ひとつは理性とか感情自体を自然の事象のように取り出して考察しようとしていることです。文学青年であると同時に、自然科学を学ぶ化学の学徒である吉本の特徴であるともいえます。
もう一つは逆に文学に固執する吉本の特徴ともいえますが、理性に対して感情というものを大きく取上げざるをえないところです。ここでは感情という言葉を使っていますが、別の言い方をすれば意味に対する価値という問題になります。
言葉が豊富になり、言葉が論理によって抽象度を高めていくこと、すなわち理性的であり、あるいは知的でありということに対して、いっぽうでたえず身体の中で乱れ、揺れ動き、いくら概念づけても残ってしまうしこりのようなもの、泡立ちのようなもの、激しくつきうごかすもの、ハートとか感情とか情動とか呼ばれるもの、文学を文学にしているもの、そこにこだわらざるをえないのが吉本の特徴であると思います。
知識人というには、あまりに心が熱くなまなましく、現実の中に生きる人であり、また一庶民として生きることを望みながら、極度の理性的な性向が精神を庶民社会から切断し孤独にしてしまうという吉本の人生の特徴であるともいえるでしょう。
この文章にあらわれている精神を自然事象のように取上げていく冷静さは、文学と科学の結合のような「心的現象論」をはじめとする吉本の原理的な批評作品を後年生み出していくものです。すべてを自然という基底にまで戻して考えたいというこの性向は文芸批評家としては特異なものであると思います。
もう一つの特徴である理性と感情というように精神を二つの極に分けて、あるがままに考察しようとする特徴は、後年言語の考察においては指示表出と自己表出という概念を独自に生み出します。また心的現象の解明においては、空間に対する時間という基軸を発想するもとになっていきます。さらにその空間性、時間性の根源として、無機的な自然の中に誕生した有機的な生命の異和自体を想定し、ここに心と言われるものの根底と疎外概念の本質を求めて原生的疎外という概念を生み出すことにもなります。また三木成夫の解剖学の成果に出会って以降の吉本は、精神を感覚器官と内臓の動きに伴う感覚との二つの解剖学的な要素から解明する考察を開始しています。
そのように吉本の理性は果てしなく抽象度を高め、時にその抽象思考の極度の酷使が吉本の精神を病的な領域に近づけます。同時にそうした知的な営為を自己嫌悪するように吉本を引き戻し、身近な人々との愛憎の世界に、生きる世界に、小さなしかし深いミクロコスモスの中に連れ戻す力が働いています。きっとそれは哀しい小児のような寂しさを伴う強い力です。乱れることを願う感情の力です。
私も最近そういうことがよくわかりますo( _ _ )o