「反抗精神をひとつの倫理として規定することこそ、アジアの風土が加ふべき殆(ほと)んど第一義の問題である」(断想Ⅳ)

反抗精神がアジアにとって第一義の問題かどうかは私には分かりません。しかし吉本が言いたいことは少し分かります。それはアジアとは何か、という問題です。吉本のアジアに対する理解はヘーゲルマルクスに拠っています。マルクスによれば人類の歴史の段階はアフリカ的、アジア的、古代的、封建的、近代資本制というように進展すると捉えられています。マルクスの背景にはヘーゲルの世界史の概念があるわけです。吉本によればマルクスの歴史段階の概念で重要なのは、その歴史という時間の概念が、地域という空間の概念に置き換えることもできるということです。アフリカという地域は歴史のアフリカ的段階を残存させている地域であり、アジアはアジア的段階を残存させている地域であるということになります。ではヨーロッパは何か、というとヨーロッパにもアフリカ的、アジア的という歴史の段階はかつて存在した。しかしその段階はなぜかヨーロッパの地域においてはすみやかに通過され、次の段階へ移行したということになります。
この歴史段階とその空間への置き換えの概念が重要なのは、世界の認識において他国の状態をこうした概念抜きに断定することの愚かさに気づくことができることです。
例えばアメリカの政府を牛耳る新保守主義ネオコン)の理論が典型的ですが、自国であるアメリカの歴史段階をそのままのっぺらぼうに敷衍して、他国を裁いています。資本主義段階にあるアメリカの政治概念である民主主義を、歴史段階という視点を抜きに他国に押し付けています。そして中東や北朝鮮のように違う歴史段階にある国家と民衆を遅れた啓蒙するべきものと規定して、力ずくで世界をアメリカ化しようとしています。しかし北朝鮮を見れば分かるように、あの歴史段階は60年ほど前の日本と同じです。善悪の問題ではなく、歴史段階の問題であると思います。
なぜヨーロッパではすみやかにアジア的段階は通過され、アジアでは今に至るもアジア的段階がなぜ保存されるのかは、自然や気候の違いとそれに即した牧畜や農耕といった生産段階が長続きしたか、次の生産段階である工業に移行したかという問題だと思います。そこで問題となるのはヨーロッパは論理や思想、科学、技術という面において他の地域を遥かに凌駕していますが、では他の世界の諸地域はヨーロッパに具現された歴史段階にすみやかに到達すればいいのか、ということです。それを当たり前じゃないか、と考えるものを進歩主義というわけです。
しかし吉本の考えは進歩主義者と違います。吉本は大衆の原像という考え方にもあるように初源にあるものを未来に対していつも繰り込もうとする思想家です。アジア的段階にあるものは、単に過去として過ぎ去るものではなく、その中に現在から未来へ繰り込むべき重要なものが含まれていたと考えます。アジアの、同時にアジア的段階のもつ良さとは、私達日本人にはよく肌で分かるものです。それは田舎の暮らしのもつ良さ、一昔前のレトロな時代の日本の良さといえるものです。助け合って、自然に包まれて、貧しいけれど逆に言えばかなり平等に肌を寄せ合って暮らしている村のような良さです。共同社会のあり方として理想的なものが、アジア、アジア的段階の中に、そのダメさと同時に存在していたと考えます。
ではアジア、アジア的段階のダメさとは何か。なぜ歴史段階はアジアを捨てて行こうとするのか。それはそのダメさのためだとも言えます。それは反抗精神がないことです。政治というもの、つまり支配者たちがどう争おうと交代しようと、何も関心を持たず理解もせず、ただ自然が移り変わるように政治の変化を受け入れていってしまう。それがアジアのダメさです。現在の日本でもアジア的段階のダメさは濃厚に残存しています。生活圏域の外部にある政治とか大きな経済状況という観念の領域に浅い関心しか持たず、性懲りもなく何度も何度もだまされ、いつまでもいつまでも支配されていく構図は変わりません。
この反抗精神の欠如は論理性の欠如に拠るわけです。そして論理性の欠如というダメさを抱えたまま、江戸時代にアメリカや欧米から強制的に開国され、いっきに近代化した社会を築き現在に至っています。社会は近代ですが、精神はアジアのダメさ、そしてアジアの良さを濃厚に抱えながら生きている。それが私達日本人の現在です。それを進歩主義者のように簡単に裁断することはできませんが、ダメさという部分には自分自身を含めて、本当にうんざりします。llllll(-_-;)llllll