「精神はやがて社会化せられるだらう」(原理の照明)

ここでは25歳の吉本が敗戦後はじめてマルクスを知り、その思想を辿っている姿が顕れていると思います。社会の中の人間、つまりあなたや私が取りうる精神的な態度の理想は、この社会とか歴史とかの大きな視野を手に入れるということになるでしょう。
しかし現実のこの社会の中で私達は、中学校の国語の教師だったり、役所のある課の職員だったり、NPOの老人支援の支援員だったりするわけです。それは社会の局所に局部的に生きているということです。従って、その局所からしか社会を見る事ができないし、社会を新聞やテレビのニュースを見て考えている余裕もなく局所の中の狭い視野に埋没することも往々にしてあるといえます。そこでは精神は局部化していて社会化しているとは言えません。
ところで一方では、局部ではなく大局的な見地から大だんびらを振りかざすように国家社会を論じるセンセイたちがいます。それは政治家であったり、大学教授であったり、オピニオンリーダーとしてワイドショーに出てくる文化人どもであったりするわけです。彼らは何故大局的な見地に立ったご高説を語るかといえば、彼らが局所的なところに閉じ込められている部分が少なく、観念的な生活の部分が大きいからです。彼らは税務申告書を毎日書くことを繰り返すわけでもなく、働きに出る母親の子供を毎日預かるわけでもなく、わがままなダンナや子供のために家事を繰り返すわけでもないからです。
そこで精神が社会化されるという理想の遥か以前の現実として、局所に生きる、視野が局所化される繰り返しの生活と、局所に生きる現場から離れて、観念的な生活を送るセンセイがたの生活が存在していることになりましょう。ではどうしたらいいのか。
局所化された平凡な息苦しい生活をサラリと捨てて、センセイがたの仲間入りをするために観念的な生活を拡大すればいいのか。それは吉本に言わせれば「ダメ」なのです。精神が社会化されるというのは、観念の幽霊のようになることではなく、局所的なところで局所的に生きていながら、同時に大きな視野を手に入れることである。魚屋が魚を売りながら、薬剤師が薬を調剤しながら、大きな社会的な視野を手に入れる。それが60年安保の激動の中で、吉本がただ一人提出したテーゼでした。それが「自立」という概念です。
局所的に生きざるをえない現場の、あなたや私の足元の、狭い生活圏の、そこにだけその局所性を打開する可能性が埋まっている。生活者の生活を掘り下げることにしか、局所的に閉じ込められた精神を社会化する経路はありえない。吉本はマルクスをそのようにおなかの中で自分の思想に組み替えていきます。