「偶然はしばしば焦燥を抱かしめるが、その焦燥は偶然を必然と感じるところから由来する」(原理の照明)

ここで必然という言葉で指しているのは内面的な必然性のことだと思います。自分の心の奥にある願望とか怒りとか資質とかが原因となって自分の精神が形成されますが、その自分の意思ではどうにもならない、既に決定づけられた自分の核から生じるものを必然と呼んでいると思います。一方偶然とここで言っているのは外部の環境から自分に対して出来事としてやってくるものを指していると思います。例えば誰かと出会って、その人に対して激しい印象、憧れとか怒りとか嫌悪とか好感とかを抱いたとします。その出遭ったということを偶然といい、印象をもったことを必然と呼んでいる。
ただし自分の内面の反応を必然と呼ぶには、自分の内面が幾度も掘り返され、論理化されていることが前提にあります。そういうことをしないでいる存在の典型は子供です。子供にも多くの出来事が偶然としてやってきます。そして子供の内面にも多くの印象が刻まれるでしょう。しかしそれを子供が必然と考えることはないと思います。なぜなら子供にはまだ自分にとって何が内面の必然かという内省の意識が薄いからです。だから子供にとっては外部の出来事も内面の印象も偶然の連鎖です。
吉本のように内向的な資質を持った人は、自分の内面の核に向かって例えばノートをつづったりしながら無限に接近しようという衝動を持っています。そして次第に自分の核、自分のどうにもならない宿命に気づいていきます。
一方、外部の現実は外部の様々な要素、人間や自然や共同性によって成り立っていて、自分の内面とは別個の因果をもって動いています。その複雑で膨大な動きは、個々の要素にとっては必然であるとしても、それを受け取る個人にとっては全てを把握しきれないゆえに偶然に起こる様々な出来事という形で訪れます。
しかしこのままでは、つまり外部の偶然と、内面の必然というままでは、個人の内面はいつまでも現実と関係を持つ事ができない。あるいは偶然に対する内向的な反応という形でしか関係を持つ事ができないわけです。外部現実と主体的に関わるきっかけはいつまでもやってきません。そして、もしそれまでの現実に対する反応が幸福でなく、苦しく寂しく耐え難いことの連続であったなら、ついに個人は自分の内面を現実と関わらせる道を放棄して内面を閉ざすしかないでしょう。それが引きこもりというものです。つまり自分の心の中に世界を作ってしまった人間は、引きこもるという形で偶然として襲ってくる外部現実から身を守ります。内面に閉じこもることはそれなりの自足を与えます。そこには自分にとっての必然の手ごたえがある。しかしそんな貝のような引きこもりの自足状態を現実が偶然の出来事として揺さぶります。それは焦慮を抱かせる。ただ受身に偶然に揺さぶられるだけの自分の心のあり方が焦慮を抱かせるのです。それは荒野からの呼び声のようなもので、偶然にやってくるように見える出来事の中に内部の必然性に呼応するものを感じさせます。何かを雲間の光のように感じさせるのです。それは内部だけでなく外部現実にも必然を見出す事が「生きる」ことではないだろうか、という意識の芽生えです。
こうしためんどくさい引きこもり系に対して、内面に世界を作ることをせずに済ます系の人たちもいます。しかし内面をほっておけば、引きこもる必要がない代わりに内面的な本質を生きることもできません。それは子供のように人生が偶然の連鎖の中で流されていくにすぎません。内面的な本質を外部の現実に関わらせる時に、はじめて現実は偶然ではなく必然性として個人の前に顕れ、個人の内面の真実に逆に影響を与え出します。そのことによって個人の内面と現実が共に傷ついて変貌していく、そういうことが「生きる」ことだという考えが吉本を訪れています。平たく言えば、本当に思ったことを言い、やりたいことをやろうとしない限り、いつまでも自分も周囲も変わらないというようなことです。
吉本も引きこもりでした。吉本が引きこもりを脱出していく過程というものがあります。それは詩作としては「固有時との対話」から「転位のための十篇」という作品の転換に象徴されています。まず自らの内面の論理化という段階があり(固有時)その論理化された内面を偶然の連鎖として訪れてくる現実にぶつけていくことによって、偶然の連鎖である現実を論理化しようとする(転位)わけです。それが吉本の倫理性です。ただの、現実だけを論理化するのではない。自分の内面の引きこもりの時間を費やした論理性をもって、現実の論理化の根底とすることです。そこが思想と学問の分かれ道でもあります。
私が吉本を信頼するのは、この内面の論理化(必然化)を現実の必然化につなげていくという引きこもりの脱出の過程が、いわば吉本をさらに深く引きこもらせていることです。つまり引きこもるということは考えるということです。
何故脱出の過程がさらに引きこもらせるかというと、「生きる」ことによって、つまり現実と関わり、戦い、現実を受け止めることで、吉本自身の内面の本質が変わっていくことに鋭敏で素直だからです。吉本は何度も変貌しているように見えますし、その変貌のたびにかっての愛読者から「吉本は変わってしまった」という失望を受けて読者を失ってきています。しかし私は変わらない愛読者として、その変貌の奥にいつまでもいい気になれない、自己満足しない本格的な引きこもりの内省力を感じてきました。
この内面の必然化と現実の偶然性ということ、それに対する吉本の考察の中に多くの豊かな問題が含まれています。ここでは書ききれないのでまたいつか。