「人はいつも手段によって進む。つまり仕事によって。僕が何かしなければならぬと感ずる焦燥は、いつも手段を探してゐることになるようだ」(風の章)

これは仕事というものについての考え方を述べているわけです。ここで吉本が仕事と言っているのは、いわゆる職業と同じ概念ではないと思います。職業とは働いて金を稼ぎ生活するものです。いわゆる生業(なりわい)です。人は学校を卒業して社会に出る年頃になると、なんらかの職業に就くことを迫られます。わりあいにすんなりと世間に出て働くことを受け入れる人も多いでしょう。一方で、まるで理解のできない世界に収容されるように感じる人もいると思います。そして後者の人は、あまり金の苦労をしないで、自由に親掛かりで学生生活を送ってこれた人のような気がします。私は後者のタイプでした。
ところで親のスネをかじって気楽に暮らしてきたが、とうとう就職の年になってしまった。だから嫌で嫌でしょうがない、というだけなら、コノ甘ったれ!ということで社会に叩き込むしかないということになると思います。そこで引きこもりといわれる症状が起これば、そういう甘ったれは何が何でも社会に引きずり出そうという、いわば引き出し屋も登場するわけです。よくテレビにそういう引き出し屋を買って出る奴が登場します。とまどって何も強いことの言えない親の代わりに、他人の家族の中に割って入って、叱ったり怒鳴ったり泣いてみせたりして、一生懸命社会に引き出そうとするわけです。それでうまくいくこともあるでしょう。しかし余計なおせっかいでしかないこともあると思います。だったら当たるも八卦の引き出し屋なんて、やんないほうがいいわけだと思います。
私が大学を卒業する頃、といっても一年留年してしまってますがo( _ _ )o  その頃に感じたことはなんの職業についたらいいか皆目わからない、ということでした。職業に就くという概念が、どうにもこうにもピンとこない感じでした。受験勉強以外はろくに勉強もせず、アルバイトはしましたが親の金ももらい、矢沢永吉のように貧乏だの差別だのに叩きのめされて社会に対する怒りに身を震わせる原体験もありませんでした。人はひまがあれば自然の性質として知識を拡大させたがるもんだ、という吉本の考え通りに、私もひまにあかせて漫画を読み、映画館に通い、好きな読みやすそうな本を読み、ひまにあかせて頭の中にそういう観念をいっぱい詰め込んで時を過ごしました。現実社会やせちがら世間なんて、まったく別世界のような繭のような自分の空間の中でです。そしてとうとう年貢の納め時がやってきて、就職を迫られた。
私の中に働くことへの畏れや甘えがあるなら、ありましたが('-'*) それは粉砕されてもいい、私もそう思っていました。しかし、それだけでは済まないものもあったと思います。そこが問題です。そしてその問題は、引き出し屋を買って出るお人よしな連中がまったく気がつくことのないところだし、一般に世間に通らない、特に日本の世間には通らないところです。それは何か。
それは無償ということです。タダということです。タダでもやりたい、ということですね。というかタダだからやりたい、という情熱です。報酬を考えずにやりたいということです。人はひまになると知識を拡大するだけじゃない。人はひまになると無償ということに惹かれるのです。それは何故でしょうか。それは人間が観念を生み出すという人間の本質そのものが無償だからだと思います。金くれるから考えるわけじゃない。銭金抜きに観念は生まれます。そうして生み出された観念の世界、あるいはイメージの世界、表現の世界、言葉の世界、そういうものが現実の生活や職業のいわゆる現実というものとぴったり折り合うものなら、そりゃ結構ですよ。親が子供を大学にやる時には、だいたいそういう心積もりでやるものでしょう。この子は大学で勉強して、この世の中で役に立ち、偉くもなれる知識を詰め込んでくるだろうと。ところがどっこい、子供はこの世では役に立たない観念を頭にいっぱいにしてボーっとして帰ってきたりするわけですヽ(ー_ー )ノ 
それは何故か。それは観念は現実を超えて広がってしまうからです。観念は無限に現実を超えて拡大していこうという衝動をもっています。というか観念が拡大する衝動をもっているから、この人間の現実、社会だの国家だの会社だの就職活動だのが生まれたのだと考えることができます。観念の形成のほうが根源的で、でかい顔している現実の方が二次的だとも考えられます。それはヘーゲルの考え方だと思います。
おそらく戦後世代の私達くらいのところで初めて、日本の社会はスネかじりでのほほんとそれなりに豊かに暮らす、大量の学生というひまな若者を生み出したのです。そしてそうしたのほほんとした若者たちの群れは現在も拡大する一方です。のほほんとしているんだからハッピーかと思いきや、精神障害や引きこもりも拡大します。それが人間をひまにしたことの怖さです。
わたくしごとを述べすぎましたが、吉本が自分にとっての仕事はなんだろう、それが見つからなくて焦る、と言っているのは、自分の拡大してしまった観念の世界と現実との接触の方法がつかめないということです。現実から出て行ったきり、帰り道が分からないということです。では吉本はこの後、どう帰り道をつけたのか。それは平たく言えば、銭金ぬきで無償でやることを仕事とみなしたわけです。吉本にとってそれは現実の総体を徹底的に論理化するという衝動に賭けることです。そして職業はその無償の仕事に接点を持てるものがあれば注文に応じてやるということです。つまり吉本の商品となった文章の背後には、膨大な誰も知らない文章や考察、つまり吉本本来の仕事があると思います。しかしそれは文筆業が成り立った範囲の話です。もし文筆業者としてそういう態度で生活が成り立たなければどうするか。それはその都度アルバイトでもなんでもやって食いつなぐし、それでもダメならホームレスにでもなる、ということです。つまり吉本は基本的に今のフリーターと同じ結論に達したと思います。
要するに具体的にはどういう生活をしていくのかと言えば、誰にも頼まれないし、誰も知らないところでコツコツとシコシコ(懐かしい)と文章を書いたり勉強をしたりして、思う存分観念の世界を掘り下げていく。そしてメシを食うために、納得がいけば注文に応じて文章を公表する。それで食えなけりゃ、できることならなんでもやって稼ぐという、要するにそんなことです。ただ吉本には大きな才能があり、努力を惜しまぬ精神の力があった。しかし吉本と同じように生きようとして、結局食えなくて生活に追われるうちに、本来の無償性の世界までどっかに置き忘れた、という冴えない連中も大勢いたはずです。私もそうした一人だと思います。
私が冴えない人間の一人として感じるのは、現在の社会に、そうした現実と観念のつなげ方を見失った冴えない人間が、私達の時代よりもっと大量に発生しつつあるということです。先進的な資本主義の豊かな社会、というものの抱える問題がそれです。吉本も自分自身をなんとかしようとしてきましたし、私も私なりになんとかしようとしてきました。そのやり方もありますが、自分自身にとって切実であるように自分以外の方々にそのやり方が切実なのかどうか、まったくもってわかりません。かくなる上は、お集まりの皆様方にご自身で自由に考えていただいて、そのお計らいにおまかせしたいと思います。南無阿弥陀仏(。・_・。)ノ