「方法は、習慣性を可能ならしめる手段を提供する。習慣性は、それなくして我々の思考が歩むことの出来ないものである。そのことは結局、我々の行為が歩み得ないことを意味する。少なくとも一貫せる行為が」(方法について)

これは前半のゼミの断章の続きです。実体のような包丁のような方法というものは、一回使って使い捨てというものではなく、何度もあらゆる対象に対して分析に耐えるものです。したがってそれは分析を繰り返し広げていく毎日に耐えることですから、習慣性を可能にするということになります。そして繰り返される分析は、展開し、発展していきます。なぜなら本質的な方法による分析を一貫することは、全体を論理化することだからです。ある構築物として文学や思想を見ることができ、それはこの世界を観念の構築物として奥底まで見通すことができることに繋がります。そしたらライバルをぶったおすこともできるかもしれないわけです。建築の仕方が分かれば、解体の仕方も分かります。
習慣というもの、毎日決まった時間に起きて、歯を磨き、朝飯を食い、学校や会社にでかけて、帰って飯食って風呂に入って寝る繰り返しというものは、若い奴の一番嫌悪するものでしょう。カッコ悪いから、快楽的でないから、平凡だからですね。しかし初期ノートの若い吉本は、この習慣というものに思想的な意味を与えようとしています。もう時間がないので、詩を写してドロンさせていただきます。
これは個人的に好きな詩なんですよ(^-^ )
<五月の空に>              吉本隆明

忘れられた空には
ほんのすこしの痛みがのこつているので
ほうたい色のスクリーンをとおして
吸引されつづけている
唇のよこ雲が臥している
きみは恋うる
きみ自身を閉ぢこめるため
遠いかなたからやつてきて
まだ氷のかけらをつけている
五月の空を

まずかつたなあ
それはまずかつたなあ
来歴はいつもそう囁き
その都度
ああ まずかつたよ
ちょうど今日のように後悔には
ちょつぴり沁みている紺青の布切れと
数少ない言葉を当てがい
ぼろぼろになるまでは
まだやれる
まだまだやれるよう
言葉からしたたる雫にまじつて
幽かなささめことの風が
きこえるかぎりは
<あゝ わが人>
などとうたうなかれ
それは昔 詩の教師がうたつたことだ
さよならと云つてしまえば
ほのかな未決の空の色がのこるため
み籠(こも)よ 口ごもる
それがきみの
恋うる生存ではあるまいか