「僕らは、精神のはたらきを倫理のうちにはたらかせるとき、如何に生きるべきか、といふことを解きつつあるのだといへる。ここでいふ倫理とは決して、道徳律をさすものではない。ほんたうに深くされた精神は、わけても正義や道徳の匂ひをきらふものである」(断想Ⅲ)

ではまず一曲。

「廃人の歌」     吉本隆明

ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考えてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でをはる ぼくはそれを考へてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに 世界のほうぼうで起こることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひょつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつてゐる たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によって ぼくは廃人であるそうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでいる 街は喧騒と無関心によってぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちょうどぼくがはいるにふさはしいビルディングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだ

ぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生まれてきたことが刑罰であるぼくの仲間で ぼくの好きな奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の抗訴をすすめるための 休暇はかせげる

初期ノートは吉本の若い一時期のノートですから、同じ主題をさまざまな言い方で何度も言っているわけです。倫理というのは善悪のことだと言っていいと思いますが、それは道徳とは違うんだと吉本は言います。道徳とはつまり善悪についての価値観が宗教なり世間の常識なりによって既に決定されていて、そこから下々に向かって降りてくるものを言うわけでしょう。それに対して吉本が倫理という言葉で言いたいのは、善悪の根源に向かってたえず問いかけていくような精神の姿勢のことなんだと思います。
なぜ人間は善悪というものに縛られるのでしょうか。なぜ倫理というものが人間の精神を苦しめるのでしょうか。上にあげた吉本の詩に流れている苦しさは倫理に固執することからくるわけです。倫理すなわち善悪は、共同性に関わるものだと思います。山の中にたった一人で生きているならば、善悪ということは問題になりません。人と関わるから生じてくる問題なのだと思います。吉本の詩の苦しさは、共同性に関わる善悪を負うものの苦しさです。そして既に決定された共同性の善悪の基準、すなわち道徳に納得することのできない者の苦しみです。共同性の問題なのだけれど、どこにも共同性の思想として納得するものが見出せなければ、共同性の善悪の問題は個に集中します。個が負うしかなくなるわけです。個として重過ぎる課題を負った人間の、苦痛と悲しみと、傷をおって牙を剥き出して唸っている野犬のような怒りが吉本の詩を成り立たせています。
現在の社会、経済と政治の状況は一昔前とは比べ物にならないスピードで進展し、世界的な危機に向かって進んでいます。テレビで解説に登場する文化人や学者は誰も、この状況の中で個として何を背負うかということは言いません。他人事のように知識を広げ、解説をほどこすか、宙に浮いたような誰かに言わされているような道徳を口にするだけです。本当に個として背負う人間は現在のテレビなどに登場できないからです。廃人の言葉を聴くものにしか、現在の状況を個として背負う人間の言葉は聞こえません。
そしてそういったことは社会という共同性に関わることですが、もう一つの共同性、つまり家族、夫婦、恋人といった異性との性の世界(性の世界というのはポルソナーーレの教えるとおり性行為の世界というだけではなく、心や精神の世界を含めたものです)その性の世界にも倫理は存在します。その証拠になにしたっていいってわけにはいかないでしょう。なぜ結婚するのか、なぜ家族を作ってそれぞれの家を借りたり建てたりして暮らしていくのか、なぜ浮気したらケンカになるのか、不倫したらこそこそするのか、恋や愛がなぜかくも人生をふりまわすのか、誰か世界を凍らせるような真実を教えてほしいと思います。性の世界の倫理は、人間の中の動物の部分に深く根ざしていて、社会の倫理のように簡単ではありません。また社会の倫理の付属物のように性の世界の倫理を扱うこともできません。近代社会や国家が登場するよりも人間の性の世界が(性行為ではなく)登場するのは、遥かに以前からだからです。そこでこの問題の中に陥ちることは、個とも社会性とも違う異質で異様な心の次元に陥ちることです。この詩での吉本は、「ぼくの愛した女たち お訣れだ」というようなサッパリしたことを書いていますが、それは当時の吉本がヤングだからです。実際家族を営んだら、そうサッパリはいかないってえの。しかし次第に吉本にもその重さは気づかれていき、いったん気づいた以上はとてつもない論理性が「対なる幻想」という概念にまで展開します。
社会の共同性の中での精神の孤立、性の世界での精神の孤立、それはどこに行くのか?それは個に行くしかない。そうでなければ道徳や宗教にゆだねるしかない。そうでなければ病気という状態のなかに入るしかないわけです。個にいくということは個の世界を作ります。個の世界はある意味では苦しみを受けとめるためにできるようなものです。吉本が自己幻想と呼ぶ領域が個の領域で、詩もこの領域の中で書かれます。
共同の幻想と対なる幻想と自己幻想。この吉本の全精神領域の分析は、なぜ人間は倫理的に生きるしかないのかという生々しい問いに自ら徹底して答えようとして掘り下げられたものです。まだまだ吉本思想のとばくちですが、長くなるのでまた今度。