「優越に向ふ心理に対してこそ、人間は生涯を企して闘ふに値ひする」(原理の照明)

私達は物心がついた時にはすでにどこかへ向かって歩いている、あるいは歩かされていることに気がつきます。それは親が学校が周囲がそのようにしむけているからです。勉強のできない方から出来る方へ。スポーツのできない方から出来る方へ。怠惰な方から勤勉な方へ。貧しい方から豊かな方へ。かっこ悪い方からかっこいい方へ。欠陥から完成の方へというように。それが心理における、感性における、優越に向かう秩序です。そしてこの現実には、金や権力や美や名声や文化を優越して所有した者達がてっぺんに立っている、関係としての秩序があります。その現実の秩序を支えているのは、現実の秩序に対応する感性の秩序を信じている、秩序の下方にひしめいている大衆です。例えば、有名な大学に入ることは良いことだと信じ、幼い頃から子供を塾に通わせる親のような存在です。
現実の秩序と感性の秩序は見合って存在しています。そしてこのこと自体は善でも悪でもないでしょう。この社会的な感性の秩序と自分の感性が一致する人たちは明るく健康的です。知識が豊かになり、人脈が豊かになり、生活が豊かになり、名声が豊かになって何が悪い?そのためにたゆまず努力し続けるのが人間の道ではないか。そういう信念をもって秩序の上層へ向かい続ける人たちがいます。私が若い頃ナマイキ盛りになって父親と言い争いをした時に、どうしても突き崩せない、心が通じない壁のように感じたのは、父親のこの感性の秩序を信じる信念の固さでした。
では一方、優越に向かう感性の秩序は生涯を企して闘うに値する、というようなことを書く、またそれに共感する人たちは何故そんなにアマノジャクなのでしょうか。それは感性の自然が、この強いられた感性の秩序に抵抗するからです。感性の秩序によって劣ったもの、悪いもの、醜いもの、怖いもの、かっこ悪いもの、として排除されるものの中に、より深い自然性を感じるからです。しかしこのような感性への疑問や否定を抱いた人はあまり幸福とはいえません。暗く不健康で、何を考えている分からない人付き合いの悪さがあり、ノリが悪く、浮いていて、男らしくあるいは女らしくなく、流行に疎く、最も痛々しいことに異性にもてない。フットボールチアリーダーの活躍する明るいアメリカのハイスクール映画で、ストーリーから排除される図書室にこもっているオタクのような存在です。
こうした感性の秩序への疑問はいわゆる「反抗期」として多くの若者が多かれ少なかれ経験するものだと思います。しかし「反抗期」というハシカが過ぎれば、また明るく健康的な感性の秩序を受け入れていく。もし「反抗期」を生涯を企して闘い貫くとしたら、この感性の秩序を原理的に否定しなくてはなりません。反抗はできても、根こそぎの否定というものはできるものではない。根こそぎ否定するためには、その感性の秩序を初源から否定し、それに代わる感性のあり方を提示できなければならないからです。それはニーチェキリスト教の感性の秩序に対して生涯を企してやったことです。
論理としては現実の秩序への反抗や否定を述べていながら、その人の感性は現実の秩序に見合っているという人もたくさんいます。吉本は「文学者の戦争責任」というテーマで批評家として出発しました。その戦争責任論の一環として高村光太郎論も位置づけられます。感性が論理化されなければ、現実の秩序の重圧の中で必ずいつか反抗的な感性も秩序の型に戻ってしまう。その感性の論理化の課題はやがて深まり、「心的現象論」や「共同幻想論」などの原理的な著作に結実します。現在、現実の秩序の大きな変換点が起こりつつあり、それに対応して感性の秩序も大きく動揺しています。今のような時代にこそ、感性の起源を解明しようとした吉本のような思想が必要とされるのだと思います。