「精神はその閉ぢられた極限において神と結合する。精神は、その開かれた極限において現実と結合する」(断想Ⅳ)

これも本当に吉本の言う通りなのかよく分かりません。しかしこの言葉の背後には、戦時中定められた将来の戦争死を前に、天皇に自分の死の理由を求めた吉本の体験があります。従ってこれは単なる論理ではなく、体験的な論理です。
過去を切り捨てずウソをつかず、過去の過ちも愚かさも包括して進もうとする吉本は戦時中の軍国少年であった頃の戦争謳歌の詩も公開しています。ではそれを。

 「草ふかき祈り」    吉本隆明

祖国の山や河よ
  歴史のしづかなその悲しい石よ
いま決死のさかひにあつて
  しづかにしづかにひそんでゐる大きさよ
その土の上にいきてゐて
おほきみのおほけなき御光につつまれて
われらいまさらに語るべき言葉もなく
歴史のなかにひかりしづめ
われの命に涙 おちる

行けよ 祖国の山や河よ
億劫の年を世は変るとも
 おほきみの御光のさかいに沿ふて
巨きなる天然のまにまに行けよ
われら瞬時の短き生きのまに
 ここの国土の丘の辺に立ち
アルタイの原野も
 アルプの山やその東西又南北の国も
おほらかな光もてつつまんとす

われら みづからの小さき影をうちすてて
神ながらのゆめ 行かんとす
まもらせよおほきみの千代のさかへ
 われら草奔のうちなるいのり
まもらせよ祖国の土や風の美しさ
 われらみおやの涙のあと

われはいのりて
 ひたすらに 道しるべ たてまつる


この詩の宗教性は現実を排除しているのではありません。それなりに現実を包括しています。しかしその包括の仕方は閉じられているのだ、ということも言えます。しかし同時に別のことも言えます。この詩の背後をなす天皇に対する宗教性は、近代の思想が切り捨てた古代思想を保存しているということです。それは歴史段階の考え方と同じです。神とか死とか宇宙とか永遠といった巨きな観念に対して、科学を根底とする近代思想は判断を保留します。それはまだ分からないこと多いからです。しかし人間の短い人生は科学の発展ばかりを待ってはいられません。その短い苦しい人生の中で巨きな絶対的な観念に触れたいという想いは誰にもやってくるものです。それに答える思想を、思想が宗教であった段階の古代思想は持っていました。それが宗教を単に閉じられた迷妄であるとか、アヘンであるとか、病理であるとかで片付けることのできない理由です。
もうひとつ言えることがあります。現実というものに対する思想同士の奪い合いとして近代思想や宗教としての古代思想を考えるとして、では現実自体とは何かという問題です。現実というものが開かれた極限にあるというのなら、その現実は知とか思想というものの外部にある何かです。
こうした問題は難解で、肩が凝ってきたのでこのへんで(。。?)