「方法のない行為と思考とは循環である。循環は深化することが出来るが、決して発展を生まない。」(方法について)

生活圏の行為と思考は方法のない循環です。つまり繰り返しです。今日も魚を売り、明日も魚を売る。今日も満員電車にゆられ、明日もゆられる。そうした繰り返しのなかで結婚し子を産み、老いて忘れっぽくなって女房が逃げたりいろいろあって、最後にへろへろになって死んでいく。そういうことが世代から世代へ繰り返される。そういった意味でも循環です。
生活圏を出ない行為と思考の世界にも思想はあります。それはたばこ屋のばあさんの思想であり、パチンコばっかりしているオッサンの思想です。それは生活思想と呼んでもいいわけです。人生ってのはな〜、男と女ってもんはネ、世間ってもんは、男だったらよー、そんな語り口でしゃべり言葉で語られたり胸に秘められたりしている生活者の思想があります。それは深化すると吉本は言っているわけです。あなただって( ̄▽ ̄)σ たとえば恋について子育てについて、別に論文を書きもしないでしょうけど、年齢と共に考えが深くなっているでしょ。なっていない?それはご愁傷さま。
そのひたすら深化し、年輪を加え、世代を超えて受け継がれる生活思想というものは重要です。いわゆるインテリはそれが分からないオッパッピーな奴が多いもんです。それが限りなく重要なものを孕んでいるということと、同時にそれは発展を生まないということ、つまりどんなに循環し深化しても、外側の世界認識に爪もかけることができないということについて吉本は考えに考えています。それが吉本の思想の始まりにある体験と発想です。それが分かると分かりやすくなると思います。
では詩を一発。

  「一九四九年冬」      吉本隆明

荒涼と過誤。
とりかへしのつかない道がここに在る
しだいに明らかに視えてくるひとつの
過誤の風景
ぼくは悔悟をやめて
しづかに荒涼の座に堕ちこんでゆく
むかし覚えた
妙なこころ騒ぎもなくなつてゐる
たとへばこのやうに
ひとと訣れすべきものであらうか

一九四五年頃の冬
あたりは餓莩地帯であつた
いまはぼくのほか誰もゐない
ひとびとのくらしがゆたかになつたと
たれが信じよう
それぞれの荒涼の座に
若者たちは堕ちてしまつてゐる

夜。
頭から蒲団をひつ被つて
フリードリツヒ・リスト政治経済学上の遺書を読む<我々の弱い視力で見得る限りでは、次の世紀の中頃には二つの巨大国しか存在しないだらう(F・リスト)>

ぼくはここに
だがひとつの過誤をみつけ出す
諦らめて
ぼくの解き得るちいさな謎にかへらう
一九四九年冬。
深夜。
そつと部屋をぬけだしていつものやうに
父の枕元から煙草を盗み出して
喫する

あいつもこいつも
賑やかな奴はみんな信じられない
どうして
思想は期望や憧憬や牧歌をもつて
また
絶望はみみつちい救済に繋がれて提出されねばならないか

ほんたうにそう考へてゐるのか
だがあいつもこいつもみんなこたへない
いいやあんまり虐めるな
一九四三年ころでさへ
誰もこたへてはくれなかつた
その時から
ぼくもそれからほかの若者たちも
いちやうに暗さを愛してきた

遠くで。
常磐列車の響きがする
ぼくはぼくの時間のなかで
なんべんそれを聴いたらう
なんべんもそれを聴いてきた
軌道の継ぎ目が軋む音なのだと思ふ

寂しいかな
すべての思考はぼくにおいてネガテイヴである
一九四九年冬。

独り。
想いおこしてゐる
一九四五年冬ころの
ひとつのへいわ。
ぼくの大好きだつた三人の少女たちは
その頃から前後して
いちやうに華やかな装ひをはじめた
ぼくは
たらひ廻しにあつていゐる徒刑囚のやうに
暗かつた
そんなに煙草をお喫みになると
いけませんわと言つていたつけ

道は。
ふたつに折れた
少女はいまはふたり嫁し
ひとりは生きることが寂しいといふ
一九四九年冬