「若し我々が発展を必要としないとするならば、我々は現実をも必要としないことになる」(方法について)

この文章はひととおりの意味でいうと、思考や行動に方法がないと発展がない、発展がないと思考や行動が、感覚で捉えられる生活世界の外側の現実に接触することができない、つまり世界とか社会とか歴史とかに出会うことができない、ということを述べているのだと思います。
会社や店と自宅との往復や、自分の地域社会といった生活世界から思考としても行動としてもあまり出て行かない人々を庶民とか大衆とか呼ぶとします。また生活世界の外側の現実を知識として知り、行動として関わることのある人々を知識人と呼ぶとします。知識人には学者、芸術家、政治家、官僚、教育者などが含まれるわけです。この生活世界と外部現実、またそこに棲息する大衆と知識人をどう考えるかという問題はかって左翼の中で大きく取上げられたテーマでした。吉本もまたこの問題を考えに考えています。この問題を取上げて論じるのは知識人の側です。大衆はこうした問題自体に関心を持たないから。そしてこの問題をどう捉えるかは知識人にとって大きな分岐点をなします。それはこの問題の中に人間とは何か、社会とは歴史とは何か、という根本的な思想を問うものがあるから
です。
では人間とは何か、社会とは何か、歴史とは何かといった観念で捉える大きなテーマをどう考えたらいいのでしょうか。ここで方法という概念の問題に突き当たります。吉本が方法と言うとき、西欧思想の巨匠であるヘーゲルマルクスが念頭にあると思います。というよりも方法という名に値するのは、この二人の方法以外に見つけようがないと考えています。ヘーゲルもまたヘーゲルの方法を批判的に継承したマルクスも、世界認識の方法をその思想的な出発にあたって獲得しています。なぜ世界認識の方法なんていう突拍子もないものが、出発にあったってあらかじめ獲得できるのでしょうか。
ヘーゲルマルクスがいくら勉強家でも、世界の隅々まで知っているわけではありません。また時代的な限界もあります。いくら大きな才能でも、文化の歴史が積み重ねた知の遺産の上にしか大きな思想を築くことはできません。ヘーゲルの時代にはまだアジアやアフリカについて詳しい情報はありませんでした。つまりそんなに世界の隅々まで分かっていたわけじゃない。分かってないのに世界認識の方法なんて獲得しちゃっていいんでしょうか。ここで普通の知識人なら、それは無理な話だから、私ごときはこつこつと先人の遣り残した分野の研究をして、多くの知識人と学会とかを作って協力して、地図を塗りつぶすように丹念に知識を増やしていって、やがて世界全体が認識できるために微力ながら今日も勤めます、という選択になると思います。しかしそのこつこつ作業は果てしがないとも言えます。世界の微細な情報は巨大であるし、そして刻々変化していくからです。そしてまさに現在は、刻々変化する世界の微細な情報が、メディアをとおして洪水のように与えられ、その代わりに世界認識の方法は見失われたという時代です。
なぜヘーゲルマルクスには世界認識の方法が獲得できたのか。世界の微細な情報の足りない時代に。もしかしたら彼ら巨匠は、とほうもない早とちりをしたかもしれない、そういう見解もありうるわけです。巨匠だからって遠慮することはないので、素朴な疑問はぶつけていいわけですよ。頭がいいったって頭がふたつもみっつもあるわけじゃないですからね( ̄д ̄) 世界とか自然とか歴史とかいう大きな概念を操って大鉈をふるような世界の認識の方法を出発にあたってどう獲得するか。それは可能なことなのか。
吉本の解釈によれば、世界認識の対象となるのはいずれにせよ観念だということになります。観念として捉えるしか生活世界の外部の世界史とか世界全体を捉えることはできません。するとこの問題は根本的には、観念とは何かとう問いです。また人間だけが観念を持つわけなので、観念とは何かという問いは人間とは何かという問いでもあります。人間だけが観念を形成するその秘密が分かれば、人間にとっての観念のいわば行方がわかる。観念を生み出すことで人間はどうありたいのかが分かる。そして一方で観念は現実を対象として現実を映したものです。微細で刻々変化し膨大である現実を観念に移し変えて、思考が始まり、行動が続きます。この移し変えに時代的な制約があり、充分に分かっていない段階であっても、もし人間と現実と観念との関係について、その秘密についての深い洞察があれば、この観念への移し変えは根本的には間違わないのだ、そう吉本は考えたと思います。そして吉本はマルクスだけが、ヘーゲルの世界認識の秘密を洞察したのだと捉えています。その秘密は人間にとっての観念とは疎外なんだという洞察だと吉本は捉えています。現実と関わる人間が、現実との関わりの中で疎外していくもの、はじき飛ばしていくもの、架空の領域に追いやっていくもの、それが観念形成の根源である。その疎外された観念の行方が人間の社会的な営為であり、それが世界史を構成する。つまり世界と世界史は、人間にとっての疎外された観念が再び外に表出されたものと見なしています。この人間の観念形成の謎を最初に把握しておくことがすなわち世界認識の方法なんだということになります。世界の地域情報を隅々まで収集したからといって、その集積がそのまま世界とか世界史という概念を形成できるわけではない。どうしたって出発にあたって人間の観念が作り出した世界と世界史を、その母胎である疎外という概念から始めていくしかない。それ以外に世界史という概念は成り立ちようがない。そうヘーゲルマルクスは考えたというのが吉本の理解だと思います。ひらたく言えば、種から大きな木や根や花や実ができるように、紀や根や花をいくら微細に調べても樹木という概念は成り立たない。樹木の一切は種の中に内蔵されているんだというような感じです。今日はこのへんでカンベンしてください(_△_;)