「我々はひとつの生存の形式をもってゐる。その形式は精神的には自由のためにあり、しかも自由を阻害するものに対する反抗としてある。」(断想Ⅴ)

これはこの文章だけでは何を言っているのかよく分かりません。この頃書かれた他の文章を読んでいくと、おぼろげながら何を言いたいか分かる気がします。生存とは生きていること自体ですが、職業だの生まれ育ちだの貧富だのという違いが生ずるより、もっと根っこのところで、生きていること自体とは何か。
そこにはひとつの形式があるのだと吉本は言いたいわけです。それは自由と反抗を生むものだと。形式があるというのは、人間であれば誰にでも共通する本質があり、その本質はどろどろっとしたかたまりではなく、言葉をもって分析できるものだということでしょう。それは何か。
後半のゼミの文章がこの文章の後に続くわけですが、そこで吉本は生きているということに意味をつけることはできないと考えています。何故ならば、意味をつけるということ以前に人間は生まれて生きているからです。意味があって生まれてくるわけではなく、すでに生まれてしまっている人間が意味を探しています。
この、気がついたらすでに生きていたという、物心がつく以前に生存していたというのが人間の誰でも共通の本質です。もし自由という概念の根拠を求めるなら、この生存のあり方の本質にしか求めることはできません。社会のために生きるとか、恋のために生きるとか、金儲けのために生きるとか、人それぞれで生きる意味づけはあるでしょう。しかしそうした意味づけは、物心ついた後からつけたものに過ぎないわけです。まして外側から押し付けられる意味づけ、国を守るために戦争に行くべきだとか、逆にそのような体制に反対する政治活動に参加するべきだという意味づけに対しては、根源的に反抗し自由を守る根拠があります。なぜならば国家が押し付ける意味より、政治党派が押し付ける意味より以前に、人間はすでに生まれて生きているからです。
このすでに生きているじゃないか、という一切の意味づけを拒絶する生存の形式をどう考えるか。それはさまざまな考え方があるわけですが、芹沢俊介という田原先生もよく知っている評論家が面白い考えを提出しています。芹沢によれば、人間は産んでほしいと頼んで生まれてくるわけではない。したがって人間は誰でも生存していることに根源的に責任がない。この根源的に責任を問えないということをイノセンスという概念で呼んでいます。イノセンスというのは無垢ということです。
芹沢はイノセンスという概念で子供の精神世界のことを考えています。子供とはイノセンスである時期である。もし子供として生きていることが苦しく耐え難かったら、子供は根源的なイノセンスから反抗する。子供の問題行動、非行とか引きこもりとか犯罪などには、すべてイノセンスという問題が関与していると芹沢は考えます。これは少年法の本質とも関連するわけですが、芹沢によれば、子供の起こす問題行動は、教師や親や警察よりも子供自身に正当性があるのだということになります。頼んで生まれてきたわけでもないのに産み出され、気がついてみたら苦しみの只中に置かれているとなれば、怒りをどこかに吐き出さざるをえないということです。このイノセンスという観点を抜きに押し付けられる道徳や管理や処罰は間違っているというのが芹沢の考えです。問題はイノセンスは子ども自身によってどのように通り抜ける、あるいは超えていけるか、ということにある。それは子供が責任なく生まれ、気がついたら周囲に広がるこの世界を受け入れることができるか。生きていることを引き受け、責任を負っていく気持ちにはどうしたらなるか、という問題だという主張です。
吉本はこの生存自体の問題について、心的現象論で原生的疎外という概念を作って考察しています。吉本によれば心には、無意識とフロイドが名づけた領域よりももっと奥に領域がある。フロイド自身にも、この無意識のさらに奥にある領域は気づかれていた。フロイドはエスという概念でそれを呼んでいます。原生的疎外はエスの概念に近いものです。
疎外という概念は、疎外された労働者などと言うように社会的な概念として使われることが多いですが、吉本はマルクスの疎外概念を自然哲学の概念、つまり自然と人間との根底的な関係を指す概念だと捉えます。そしてその展開として社会的な概念として使われるのだというように考えます。吉本は心的現象論を、吉本の捉えたマルクスの疎外概念を使って作っています。したがって心というものの最も根底にある領域は、原生的、つまり最も始まりにある疎外によって作られるのだと考えるわけです。
原生的疎外の領域とは、産み出され誕生した有機体(生命体)が、周囲の無機物との間に疎外という関係を生じることによって生み出される領域です。それは有機体が周囲の無機物に対して抱く根源的な異和が生み出すものだという言い方をしています。そして異和である以上、その異和を打ち消す作用が存在します。それも疎外という概念の中にあるもので、疎外は疎外の打ち消しを同時に孕んでいると考えます。この原生的疎外の打ち消しが、死の衝動、フロイドのタナトスという概念に繋がるものです。
私は仕事としても私生活においても死にたくてしょうがない人に接することがあります。死にたいとまではいかなくても、生きていたくない人はいます。しかしその人たちが心の核のところで病んでいるという問題をつきつめると、人が心を持つというそのことがすでに奥底で死というものを孕んでいるという問題に突き当たります。吉本は精神病というものを突き詰めると、人間が心を持つということ自体が、精神病の根拠ではないかと言っています。それは極端に言えば、人間は誰でも広義の意味で精神病なのだという論理です。この途轍もない極端な言い方に、私は真実を感じます。