「超越的なものはすべて虚偽である。観念的な思考はすべて虚偽であるのが、抽象的な思考は虚偽ではない」(断想Ⅴ)

この文章は、後半のゼミの文章に続いています。観念的な思考とは現実からいかなる源泉も得ていない思考であり、抽象的な思考とは、現実からの抽出に関与する思考である、ということです。超越的なものというのは現実を超えて存在すると見なされる絶対的な観念のことだと思います。永遠不変の真理というような観念です。
観念的と抽象的という区別で何を言いたいかを分かりやすい例で説明しようと思います。私は先日吉本の講演のCDを聴きました。「社会党社会党的なるものの行方」という講演です。私の父親はもう亡くなりましたが、社会党の党員で議員だったこともあります。だから私は個人的にこの講演に関心があったわけです。
講演の中で農業問題を取上げて吉本はこういうことを述べていました。農業に従事する人口は講演の当時で4%くらいに減少している。また農業が総生産に占める割合も同様に大変少ない。農業だけでなく自然を相手に生産する林業や漁業などの第1次産業というものは、先進国家においては一様に衰退する運命にある。
なぜ衰退するのかといえば、農業などは肉体的にキツイ労働である一方で、生産高が一定程度以上に上がらない。人間はより楽で、より多くの生産や収入のある生産の方へ移っていくものだから農業より工業へ、そして現在は第3次産業へと就労人口が移っていくのは必然的な傾向である。
しかるに社会党は、共産党もそうだが、米の自由化に反対している。一国の食料は一国でまかなうべきだという主張さえしている。また米の自由化を行うと200万人の農民が失業するであろうというデータをあげて危機感を煽っている学者もいる。吉本によればこういう米の自由化反対論が観念的な思考ということになります。つまり現実認識が全然できていないじゃないか、ということです。農業人口が4%しかいない、なおかつ今後も減少の一途をたどることが目に見えている現実から抽出される抽象的な思考は、日本の米は日本の農業だけではまかなえないという明瞭な判断です。だったら外国から米を貿易を自由化して輸入するしかない。実際他の生産品については不足するものは外国から輸入してまかなっているわけです。現実を見るならば、誰でもそう考えるであろうと思います。
ではなぜ社会党共産党、つまり社会党的なるものですが、社会党的なるものというのは既製の左翼政党、左翼思想ということですが、そういう連中はなぜ必死に米の自由化に反対するのか。それは彼ら、死んだ父親も含めてこの連中の思考が現実から源泉を得ていないからでしょう。では何から源泉を得ているのかというと当時のソ連中共マルクス主義の政策や思想から源泉を得ている、もっとハッキリいえば追従しているわけです。自民党アメリカの子分であるように、日本の野党はソ連中共の子分であったわけで、日本の政治は何者かの子分としてしか存在していないわけです。この、現実に目をつむってまでも追従する親分の存在が、子分の連中にとって超越的な存在ということになります。そして超越的なものはすべて虚偽である、眉につばをつけて聞いた方がいいぜ、ということ
です。
では吉本は現実をじかに見ていますが、現実を見るだけでは政治に対する判断は形成されません。何を判断の基準にするかという価値観が必要です。吉本にとってはそれは大衆の原像という概念です。この農業問題において大衆の原像という概念がどういうあらわれ方をしているかというと、お米の自由化の問題はただ一般大衆の立場から考えるのみであるという主張となってあらわれます。高くてまずい米と、安くてうまい米があったとしたら、どこの国の米であれ大衆は安くてうまい米を選ぶ、それだけのことで何ものもそれを覆すことはできない。また高くてうまい米と、安くてまずい米があれば、大衆は懐具合と相談して時には高い米を買い、ぴいぴいしてればまずい米でも我慢して買う、それだけのことであると言っています。この消費者としての一般大衆の明瞭な立場を根本に置いて、あとは現実から導けることを導くという思考で吉本の政治的な言説は展開されています。それは講演録を読まれたり、講演CDをお聞きになればすぐ分かりますが、誰もが納得せざるを得ない生活と現実の実態と、どんなイデオロギーにもだまされない思考力と、満場の社会党員に対しても臆することなく批判する勇気に支えられた確固たる価値基準を備えた、聞いてみれば当たり前のように感じるのにどこの誰も声に出したことのない言説です。
米を自由化したら失業する農民が二百万人でるぞ、という御用学者の扇動的な主張に対しても吉本は現実の底と、自らの内面の底から出てくる明快な批判をしています。失業者が二百万人でるというような主張は観念的な思考であって虚偽である。大学の先生で失業がどんなものか人生で体験したこともないのに何を言うのかと。外国の米を輸入したら、米屋やスーパーの店先に外国米と国産米が並ぶ。大衆は政策やイデオロギーによらず、ただ自分の味覚と懐具合に応じてそれを選択して購入するだけだ。そして日本のコシヒカリのような米は、外国の米より高いがうまい。だったら日本の農業規模は自由化によって縮小するかもしれないが、どこかに均衡点を作り出すだろう。つまり日本の農家も輸入米に対抗して価格や味を工夫していくだろうということです。それを日本農業が壊滅して失業者があふれるというような主張は、大衆を見ずに政党のゴキゲンを伺っている言説だということです。吉本によれば、失業というのは大衆は一生のうちに一度や二度は経験することにすぎない。そして失業保険などで食いつなぎながら転職していくだけだ。だからスパンを長くとってみれば、失業と転業ということは同じことである。日本農業の人口の一部が他の産業に転業して、農業の均衡点を生み出すだろうということが言えるだけだと言っています。
観念的な思考、それは子分の思考ですが、観念的な思考と別の観念的な思考が対立して議会やメディアのなかを横行する日本のうんざりするような光景の外側で、吉本はつねに現実から抽象した思考を石を積むように積んできました。私の父親は風邪をひけば心配してくれるようなふつうの優しい父親でしたが、一方で観念の中ではけして譲ることのできない納得のできない思考をもって社会的に通用している存在でした。父と息子というのはそういう関係なのでしょう。吉本の講演CDを聴きながら、もしかしたら観念的な虚偽に奉仕して終わった父の人生と、死んだ父の年齢にあと数年という年齢になって、家庭的にもいろんな失敗をしてきちゃった自分の人生のことと、死に近づきながら思考することをやめない吉本隆明の人生のことがいやおうなく胸をよぎりました。