「一般に欠如の感覚は、欠如を満たすことによって消解するのではなく、正しく僕の経験によれば、掘り下げることによって消解するのである」(不幸の形而上学的注)

例えば英語ができない。これじゃダメなんじゃないか、という焦りがあるとすると、これを欠如感と呼ぶ事ができます。もうこの年齢で結婚してないとダメなんじゃないか、とか。女房に逃げられたままじゃダメなんじゃないか、とか。
こういう欠如感を感じると、ノルアドレナリンが出ますから、その欠如の状態から逃走しようとしたくなります。NOVAに行こうとか。お見合いパーティに行こうか、とか。そして欠如感の向うで商売人がてぐすねを引いて待ち受けているわけです。
しかしたとえ英語ができるようになったり、彼女ができたりしても、欠如の感覚はなくなるでしょうか。それはいっとき埋められるだけで社会的に消えるわけではない。またどこかの誰かが同じ欠如感に苦しむし、自分もいつか再び欠如感のあり地獄に落ちる。
ノルアドレナリンの噴出に耐えて、欠如感自体について考えると、欠如感の概念の上位の概念として感性の秩序という概念が考えられます。以前も書きましたが、感性には社会的な秩序に対応する秩序がある。この秩序が優位感も生むし、欠如感も生む。感性の秩序という概念は、現実の秩序、つまり法律や道徳や宗教によって作られる価値観の秩序という概念との関連づけという思考を目覚めさせます。こうしてあわてて欠如感を埋めるために自分を責めコンプレックス産業の餌食になる前に、自分の欠如感自体を突き放して考えてみることを掘り下げると呼んでいます。
そして考えることによって掘り下げていくと、自分ひとりが自分を責め、自分ひとりが逃走できればいいや、という考えから、多くの人々を捉えある方向に目を向けさせている目に見えない秩序の存在に気づき、自分の感性を社会の中に位置づける考えに移っていきます。欠如感は人々を分断しますが、掘り下げて考えることは観念の目に見えないワールドで、ノルアドレナリンの噴出に耐えてたたかい、人々との共感性をさらに奥深くに見出していくことです。