「方法は、その抽象性によりして、決して自ら閉ぢることはない。方法は発展する」(方法について)

ヘーゲルにしろマルクスにしろ人間の根源的な秘密を洞察しています。その洞察が方法になっているわけです。多くの知識を知っていたから方法が成り立ったのではなく、人間に対する洞察があったから方法がなりたったのです。その洞察はどこから来たのでしょう。それはやはり生活人としてのヘーゲルマルクスの、自分自身や自分の生活世界への洞察からきていると思います。それは平凡な生活人としての洞察と同じです。外部現実の知識が豊富だからといって洞察が深いわけではありません。つまり知識人が外部現実の知識を誇っても、方法を誇ることはできません。それは別物であり、出処がちがいます。そこに生活世界からの洞察ということの重要性があります。
いづれにせよ人間はひまがあれば、多かれ少なかれ知識的になります。たとえアニメや芸能人の知識であれ。知識ということそのものには、ほっておいても自然に広がっていくものという意味しかない、というのが吉本の知についての根本的な考えであり否定性です。否定性というのは知の量を誇ることには意味がないということです。そんなものはほっておいても豊かになる。しかし知とか観念というものが人間にとって必然である根源を洞察することは何かなんだ、つまり価値でありうると吉本は考えているわけです。その洞察はありふれた、ヘーゲルであれマルクスであれありふれてしか存在できない平凡な日常の繰り返しのなかから生じるしか生じようがない。それは頭が切れるつもりの知識人が足蹴にして出発し、振り返ることの少ないふるさとです。
では詩をどーぞ( σσ)_旦~~ お茶でも飲みながら。

「この執着はなぜ」    吉本隆明<この執着は真昼間なぜ身すぎ世すぎをはなれないか?
 そしてすべての思想は夕刻とおくとおく飛翔してしまうか?
 わたしは仕事をおえてかえり
 それからひとつの世界にはいるまでに
 日ごと千里も魂を遊行させなければならない>

きみの嘆きはありふれたことだ
一片のパンから一片の感覚の色彩までに
すべてのものは千里も魂を走らせる
それは不思議ではない
つみあげられた石が
きみの背丈よりも遥かに高かつたとしたら
きみはどういう姿勢でその上に石を積むか
だからそれは不思議ではない

不思議はからみあつた色彩として
きみが時間と空間を生活することだ
あるばあいにそれは遥かの街の烟のように遠く
あるばあいきみが世界を紡いでいるように近いことだ

あらゆる複雑さ 不思議さ 不可解さの中心に
きみがじぶんを見つけだすということは
きみの魂を遊行させる
きみはそのとき幻の主体となり
馳せてゆく馬になり 
穴居へもどつてゆく蟻になり
わずか一羽の小鳥がとびたつだけで
驚く樹木の雫となり
また陳列された博物館の古銭となる

きみはいま
 <友よ 一九四0年代には われわれは透明な球のように
 また泥地に寄生している蔦のように
 暗くそして明るかつた
 そしてわれわれにとつて戦争とは偉大な卑小であり
 傷が弾丸となつてわれわれを貫くために
 ひとびとが平和と名づけた幾歳月が必要であった>
と呼びかける者をもつていない

きみは渦巻きのような夢が
うちくだかれる音を
佇ちつくして聴いている
ひとつのにぎやかな古戦場の市街にいる