「人間が若し何物かを欲するとすると、それは必ず必要であるものを欲することは明らかである。ところで、或るものが必要であるといふことは、それほど解り易いことではない。必要は、真に欠乏しているにしろ、或はそうでないにしろ、欠乏の感覚に由るものであるように思はれる。それは、言はば、均衡の欠如を充すひとつの感覚である」(秩序の構造)

これも秩序をささえる感性の秩序ということで、以前に書いたことがあるので、少し違うことを書かなくてはなりません。だんだん苦労が増えるわけです・・・
私達は何かが足りないという意識に苦しみます。もっともっと何かが必要であると。私事で恐縮ですが、私は女房に逃げられちゃったので、家に帰るとあー俺はひとりぼっちだと感じます。欠乏の感覚を感じるわけです。女房がいて子供がいて老いた親もいて仲良く団欒がある。それが均衡の感覚であれば、まったく均衡を欠いた感覚を毎晩感じます。いるのは犬と二匹の猫と、彼らのノミくらいですから。
ところであるものが必要であるということは、それほど分かりやすいことではありません。欠如の感覚を、ただ疑わずに感じるままにすれば、なんとかして均衡を、つまり団欒を取り戻そうということになりましょう。しかし、その欠如の感覚に論理を与えるならばどう理屈をつけられるでしょうか。論理を与えようとすると、それほど分かりやすいことではなくなってしまうわけです。
そして論理づけようとする、平たく言えば考えようとしないかぎり、女房であれ姑であれ小姑であれ、自分とは違う人間として見えてはこないものです。つまりポルソナーレが指摘するように「私は右手、あなたは左手」というような自分の感覚的な身体の延長のようにしか相手を見てはいないままです。それが好意であれ悪意であれ、感覚でしか捉えない他人は実は自分の延長です。好きでもダメだし、嫌いでもダメ。自分の土俵の中で一人相撲を取っているだけだと私は思います。
そして論理づけようとすると欠如(足りない)という概念自体が、じっくり考える思考の中で解体していきます。そして世間の常識も解体し、誰も正確に言い当てていないこの現在ただ今の社会、生活、日常のなかで、他人をどう受けとめ、自分をどう受けとめ、ホントに手触りのある動機は何だ?というふうに次第に突き詰めていくことになります。
考えなければ、そんなふうにモノにさわるごとくに動機にさわることはできません。そして動機にさわれるならば、結果を恐れずやってみるだけです。恐ろしい結果が生じても、それは解析する(もっとよく考える)に値するものです。
女房に逃げられた亭主というのは、まったく情けないものということになっています。事実情けないですが、しかしそれは一つの感性の秩序でもあります。情けないということは否定しませんが、誰も言い当てられないままの何かまだ真っさらなものが現実の底にあります。それがある分だけ、今までの常識や通念は浮いてしまっています。それは大きくいえば、社会全体が未知の状況に浚われてふわふわと浮いているということです。それを生々しく感じること。その底に向かって考える姿勢を取ること。そんなことが吉本から学んだ私の現実の耐え方になります。