「我々は、ひとつの設けられた陥落にたいしては、いつも開かれた精神でむかふことが必要である。何故かといふと、閉じられた精神は、陥落におちこむと、自らを枯らさうとする自己運動をするからである」(断想Ⅲ)

陥落と言っているのはありふれたことでいいわけです。夫婦がうまくいかない。恋人とうまくいかない。職場で上司とうまくいかない。職を負われて仕事がない。家族の介護で疲れ果てた。それが陥落です。
開かれた精神とは、その自分だけを襲ってきた、自分だけが世界で一番不幸であるかに感じられる出来事を外側から見る目です。つまらない人生相談のように外野席から見るという意味ではなく、その自分だけを襲い自分を閉じ込めてしまうように感じる出来事を、人間というものを根本のところで決めている精神の構造とか、人々を一見さまざまなバラバラの陥穽に陥れているように見えながら、実は大きな社会的な流れと関連している部分とかを考え、そういう視野のもとに自分の問題を位置づけるということです。職場で上司とうまくいかないというありふれた悩みにも、深く掘り下げていけば人間の精神の問題や社会の状況の問題が存在することが分かります。本当に人と人がうまくやっていくことは、そうした個の世界に陥ちこんだ自分ひとりの悩みの世界から、その底を掘ってつながるしかないと思います。大勢で集まって歌でも歌って興奮してオー!とか言ったって、うちに帰ればまた現実の一人きりでの悩みが待っているわけですからね。悩みの中にどっかりと座って、考えるしかないんですよ。しかしただ考えることだけを勧めれば、そこにも陥穽が待っています。ある意味で考えるから人間は病像を自分で作るわけです。心の病気は自分で作るんですよね。作品なんですよある意味では。だから狂気の中にも感動するようなものがあったりするわけでしょう。開かれない心がひたすら考えると、吉本の言葉では自分を枯らす。どうどうめぐりをするから枯れるわけです。それは病気の入り口です。考えることつまり論理というのはそれ自体賢いわけではなく、どんどん自動運動するもので、とんでもない病気の中へでも連れて行く。だから頭がいいということはたいしたことではないので、頭がいいばっかりにとんでもなく間違うことはあります。そこで開かれていること、開かれているために現実に生きる人々の、もっともありふれた生涯の繰り返しのイメージがたえず考えに繰り込まれなければいけないとい吉本は「大衆の原像」という概念で言っています。本当によく考え抜かれている。吉本はすごい。