若しも僕が社会を構成してゐる思惟の錯綜を再現することを願ふならば、社会は金網の積みあげられた山のやうに視えるだらう。到るところで身をからまれる者が在るかと思へば、或る者は何くはぬ顔をして網の目の端を引張つてゐる。(〈夕ぐれと夜との言葉〉)

これはあまり解説の必要がないと思います。社会というものを内面として視て、錯綜する思考の山のように見たらどうなるかということを言っているわけです。これに時間軸を加えれば、内面としての歴史ということになるわけです。社会を内面として視れば支配的な思想、イデオロギー、あるいは伝統的な民族的な思想といったものが大きな山となって人々をからめ取っていることが視えるでしょう。では何くわぬ顔をして思考の山の網の目の端を引張っている奴とはどういうことか。よくわかんないですが、たぶんこれはいわゆる学者さん的な、単に知識としてだけ思想に関わるつまらないインテリのことをいっている気がします。たとえば思考の山のひとつを左翼思想だとすれば、身をからまれて政治活動に身を投じたり人生を狂わせていったりする奴がいるかと思えば、安全な場所から自分の人生も内臓感覚も血も涙もこめないで、ただ本を読んで他人の思想を絵解きする浅田彰みたいな奴もいるということじゃないでしょうか。
内面としての歴史というものを最大限に拡張すれば内面としての人類史ということになります。人類の内面を規定していったものは何か。人類が逃れることができない母子関係と共同体の関わりとは何か。ね、だんだん自分の書きたいことにもっていこうとするのが分かるでしょ。こういうのを我田引水っていいますね。そういうことで開き直って「母型論」のほうへ移らせていただきます。
人は母親から生まれ母親(あるいはその代わりとなる人)に育てられ、やがて母親を離れて共同体の一員になっていく。そして共同体のなかで挫折や傷を負う体験をする。そのことが精神の病になっていくことがある。精神の病の基底にあるのが母子関係であるとすれば、母子関係のあり方と共同体のあり方にはどういう通路が存在するのか。それが吉本の疑問でした。前回書いたように吉本は母子関係の要素を二つに分けて考えています。一つは母子の直接の関係で、母親のもっている内面が子供に刷り込まれていく直接の内コミュニケーションを含む母子関係です。子供は自分にとって世界のすべてであるように存在する母親から栄養とエロスの受給を受けとる。この時期の母子関係が多かれ少なかれ傷を負わせるものだとして、その傷の負わせかたを吉本は三つの類型に分けて考えています。前回書いたように、それは①内面と行動が一致して子供に対する冷たさや嫌悪感を露骨にあらわす型②内面に冷たさや嫌悪感を押し隠し、外面的には優しい母親として接する型、母親は自分の抑圧した内面は子供には伝わらないと思っている。しかし子供には母親の無意識まで伝わってしまう。③忙しさや心配事や周囲への気兼ねなどによって、ゆったりした授乳をおこなえない母親の型。子供にとっては授乳の時間は満たされた時間ではなく拒まれるべき時間となった。この三つの型の母子関係とは別の要素として、母子関係が形成する子供の心的な層と共同体とがどのように関係づけられるかという問題を吉本は取り上げます。この場合に対応づけができる共同体とは未開、または原始、またはアジア型の共同体であると吉本は述べています。それで前回はG・ベイトソンのバリ島の子育ての研究を取り上げている部分を解説したわけです。これは「心的現象論」の本論の「了解論」に出てきます。バリ島の子育ては「高原状態」とベイトソンが名づけた心的エネルギーの状態を作り出し、この「高原状態」が共同体の制度や慣習の型を決定することがありうるという観点を提出したわけです。
今回はこの続きを解説したいと思います。吉本がやりたいことは母子関係が決定する世界的な共同体の原型なのだと思います。そのために西欧の型の母子関係とアジア型の母子関係を比較しようとしています。まずはアジア型の母子関係と共同体の関わりを問題にします。アジア型の母子関係の類型が分かれば、前述のバリ島の母子関係と共同体の対応関係もその類型のなかに位置付けることができることになります。
吉本の考察は最初に述べた直接の母子関係が子供に傷を負わせることになる三つの型がそれぞれどのような共同体と対応がつけられるかということを切り口にしています。まず①の型はベイトソンの述べるバリ島の子育ての記述に対応すると吉本は考えます。この子育ての型はバリ島では「高原状態」のタイプの共同体を生み出す。そこでもしこの①の型が日本の共同体に対応するとするとどんな共同体のあり方を原始、未開、アジア型という古代以前の共同体として推論できるだろうかと吉本は考えます。それは母系的な共同体であろうと述べます。母たちが強大な権威をふるって共同体の意思を決定づける役割を握っている。そして男の子供たちはじぶんの子供も他人の子供もおなじように共同体に扱われるというあり方だと吉本は書いています。そして成長した男たちは共同体の公的な権威をもつことなく共同体の実務を実行するだけの存在となる。共同体の公的な権威をもち公的な場面を統御するのは母の群れ(あるいは宗教的な女首長)に限られる。公的な権威とは未開、原始、アジア型の共同体では宗教的なものであるから、心的なエネルギーを瞬時に昂揚させ、また減衰させて憑依状態におちいり託宣をくだしたりする能力が必要となる。この能力をもつのは①の子育てにおいては母たちの群れだけだと吉本は考えるわけです。
男の子たちはこのような共同体のなかでは温和で屈折していて、人なつっこく依存心が強く他人に感情を開き信じやすいが、いったん裏目にでると猜疑的で共同体外の存在や習俗を受け入れようとしないと吉本は述べています。
そして重要なのは男たちとその姉妹との心的なエロスの関係に触れているところです。男の子供たちは母親から突き離されているという習俗的な感情のなかで、その代償のようにじぶんの姉妹たちと強い性的なまた宗教的な親和感情をもって結ばれていると述べています。男の子供たちはやがてアドレッセンスを迎えると、おなじ共同体のなかの女の家へ通婚するようになるが、姉妹との性的な絆はなお共同体の宗教的な行事のばあいは保たれている。そこでは宗教的な行事は姉妹たちによって担当され、それを扶佐するのは姉妹たちの「夫」ではなく、他の女系家族をつくっている兄弟たちだということが起こりうると述べています。
このあたりの文章はほとんど「心的現象論」から書き写しています。だからこんな解説よりも直接読んだほうがいいですぜってなもんですが、ま、いいか。ところでこうした吉本の記述には「共同幻想論」や「南島論」や「柳田國男論」や「アフリカ的段階」やさまざまな論考で長いこと追求してきた考察の成果が込められているのが分かります。「母型論」的な追求のなかで吉本の全思想が通底していくように私には思われます。いずれは吉本のさまざまな論考と「母型論」的な母子関係の追求を関連付けて解説してみたいと思います。そうすればなんか解説っぽくなるわけで、読んで少しは得した感じがあると思います。なるほどね的な感じで。まあ今のところはそこまでいかないわけで、まあここはひとつ貸しってことにしといてください。
続いて②と③の母子関係の類型と共同体の対応関係の考察に進むわけですが、長くなるので今回は①の類型の解説で勘弁していただきます。つまりここで解説したのは吉本の推論した日本における未開、原始、アジア型の共同体のひとつの類型であるということになります。母系的な共同体のあり方を母子関係のあり方と対応付けて、なおかつその母子関係の共同体への対応が男とその姉妹とのエロス関係に転化していく考えが述べらているわけです。ここには共同幻想論のテーマ、どのようにして共同幻想としての国家が生まれていくかの問題が関わっています。しかし物事には順序というものがあるので、だんだんに進みたいと思います。